表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/47

7-2

 レナはわずかな躊躇いを見せた後、心を決めたように紙にペンを走らせた。


『オリビアから、なぜわたしが声を失ったかは、聞いている?』


 エリックは唐突に書かれた文字を驚いて見つめた。


「あ、いや……。正直気にはなったが、彼女が話さなかったので、無理やり聞くのも不躾かと」


 レナはエリックの答えを聞いて安堵したような気が抜けたような、複雑な気分になる。


 しかし自分に向けられるエリックの瞳の中にある真摯な色に気がついた今、恐れずに自分を偽るのはやめようと思った。


『前にも話したけれど、わたしもあなたと同じように幼い頃に母を亡くしている』


「――ああ、聞いている。もしやそのときのショックで――……」


 レナはエリックの言葉を首を振って遮ると、震える手でペンを握った。


『母が死んだ後、父が新しい母を連れてきた』


「『新しい母』? 継母のことか?」


 しかしウォルバートが後妻を娶ったなどという話は聞いたことがない。会食の場にも、それらしい女性の姿は見なかったはずだ。


 レナはもう一度首を振ると、ペンを握る右手を左手で支えるようにして、やっとのことで文字を綴る。

 書き出された細かに歪んだ文字を見て、エリックは息を呑んだ。


『わたしは彼女を殺してしまった』


 張り詰めた静寂が狭い室内に満ちる。

 重たい静けさの中で、エリックが唾を飲み込む音がやけに大きく響く。


「こ、殺したとは――……」


 エリックは何と言葉を返せばいいのかわからなかった。彼女なりの冗談だと思いたかったが、思いつめたレナの表情が、それが明らかな真実なのだと告げていた。


 レナは小さく息を吐いてから、過去の出来事を紙に綴りはじめた。



  * * * * *


 

 それは、レナが十三歳のとき。母が亡くなって五年が過ぎた頃だった。


 レナの前に一人の女が現れた。


 彼女は父が連れてきた人で、『お前の新しい母親になりたいのだそうだ』と紹介された。


 レナは頑なに彼女を拒んだ。自分にとっての母親は亡くなった母ただ一人だ。『新しい』ものなんていらない。代わりになんてなれるわけがない。


 何よりも、初めて紹介されたとき既に彼女の腹部が大きく膨らんでいたことに、レナは激しい嫌悪を覚えたのだった。


 当然父のことも軽蔑したし、許せる気もしなかった。あの女だって、どうせろくでもない女に決まっている。


 ――まだ結婚もしていないのに。なんて図々しい女だろう。


 やがて女は父との間に男の子を産んだ。


 父をはじめ、屋敷の人間は皆ウォルバートの跡取りとなり得る弟を尊び、やがて女に嫌悪しか向けないレナのことなど気にも留めなくなっていった。


 居場所を失ったレナは、当時アランという子供を園庭見習いに迎え入れ、彼の世話を焼くことで孤独を紛らわせていた。


 アランはとても素直で従順で、レナの言うことを何でもよくきいた。一人っ子として育ったレナにとってはまさに理想の弟だった。


 歳が近いせいもあり、レナはどこへ行くにも何をするにもアランを伴った。オリビアたちも最初は眉をしかめたが、母を亡くして以来快活さを失っていたレナが笑顔を見せるようになり、あまり強くたしなめることはしなかった。


 一方女はというと、レナと親しくなろうとレナの好きな焼き菓子を作り、レナのために新しいドレスを仕立て、レナの好きな花を一日も欠かさずに部屋へ届けた。

 時には赤ん坊を乳母に預けてまでレナとの時間を持とうとした。


 だが既にその思いやりさえ認められないほどに、レナの心は固く閉ざされてしまっていた。


 レナは健気に愛情を注ごうとする女に罵詈雑言を浴びせかけ、優しく触れようと伸ばされた手を冷たく叩き落とした。

 あまりの態度に、オリビアたち周囲の人間もレナをたしなめるほどだった。


「お嬢様のお気持ちもわかりますが、あの方は決して悪い方ではありませんよ。一生懸命お嬢様と仲良くなろうとしていらっしゃるのです。そのお気持ちを無碍にするなど可哀想ですよ」


 ――一生懸命?

 ――可哀想?


 それなら、わたしの気持ちはどうなるのだろう。亡くなった母の気持ちはどうなるのだろう?

 図々しく母の椅子に座ろうとする女から、母の尊厳を守ることが、それほど非難されることだろうか?


 荒んだ気持ちで池の畔にある母の桜の元にたたずんでいると、いつもアランが現れて隣に寄り添っていてくれた。


 そんなある日、レナは流行り病にかかり高熱を出して寝込んでしまった。

 皆は赤ん坊に風邪が移らないようレナを隔離した。レナを見舞うのは世話係のオリビアと、来なくていいと言うのにいうことを聞かないアランだけだった。


 季節は春。あの、母の桜が一番美しい姿になる頃だった。

 今年はあの桜が見れないと思うと、レナはとても悲しかった。


 ところが数日後、窓の外に激しい雨が降る朝に、予想もしていなかった人物がレナを見舞いに来た。


 それは、美しい花をつけた桜の枝を手にしたあの女だった。


 レナは戦慄した。


「それ――まさか、手折ったの……?」


 桜が花をつけるのは古い枝だけだ。新しい枝が生えても、花を咲かせるには年数がかかる。

 さらに桜は決して強い樹木ではない。こんな雨の日に折れた傷口から雑菌が入れば、木が弱ってしまうことも十分あり得るのだ。


 それに何よりも――。

 母の思い出の大切な桜に無遠慮に触れ、心無く傷つけたことが、レナにはどうしても許せなかった。


 激昂するレナに、女は可哀想なほど狼狽した。「桜を手折ってはいけないということを知らなかったの」そう言って何度も何度もレナに頭を下げた。


 父はそんなレナの態度に怒り、レナが女に懐かないのはいつまでも死んだ母親に執着しているからだと言って、桜の木を切り倒してしまった。


 病が治り、そのことを知ったレナは、桜があった池の畔で女を激しく責め立てた。


「母の桜が切られてしまったのはあなたのせいよ!」「あなたなんかこの家に来なければ良かったのに!」「疫病神!」「悪魔!」「籍も入れていないくせに子供を産んだ女狐め!!」


 思いつく限りの暴言をぶつけるレナに、女はひたすら頭を下げるばかりだった。

 その態度が余計にレナの神経を逆撫でした。悲しいのは自分の方だというのに、なぜこの女が被害者ぶって涙を流すのだろう。


 昂ぶった感情のままに、レナは女を突き飛ばした。

 決して怪我をさせたかったわけではなかった。ただ、美しく着飾ったその姿を、泥で汚してやりたいと思っただけだった。


 軽く肩を押しただけのつもりだったのに、予想外に軽かった女の体は、ふわりと浮いた。

「あ」という形に口をあけたまま、女の体は派手な音をたてて池に落ちる。


 レナは呆けたまま溺れる女を見つめていた。

 自分のしてしまったことの恐ろしさに一気に血の気が引いていく。


 池の中で激しくもがく女の姿が、硝子一枚隔てた向こう側の出来事のようにどこか遠く映っている。

 女は助けを請いながら必死でもがくものの、水を含んだ重たいドレスが邪魔をして、浮き上がることさえ難しいようだった。


 レナは驚きと恐怖に腰が抜けてしまい動けなかった。女の立てる水音と叫び声に震えながら、地面にしゃがみこんでいるしか出来ないでいた。


 やがて、騒ぎを聞きつけたアランが駆けつけたとき、水面に力なく浮かぶ女の姿と、それを池の畔から見つめたまま座り込んでいるレナの姿があった。


 そのとき既に、レナは声を失っていた。そのために助けを呼べなかったのだと思い、誰もレナを責める者はいなかった。

 父もまたレナを責めなかった。自分が桜の木を切ったことでレナを追い詰めてしまったと逆に詫びた。


 だが、事故を経て明らかによそよそしくなった父の態度に、心の底では父は決して自分を許してはいないのだとレナは感じていた。


 後になって知ったことだが、出産の前に籍を入れようとする父に、女は頑なに首を振ったのだという。

 レナに許しを得ることなくあの子の母にはなれない。それはレナの心を踏みにじることだと。

 本当の意味でレナに受け入れてもらえなければ、彼女を育てられずに亡くなったあなたの奥方にも顔向けできないのだと言って――。


  * * * * *


 レナの細い手によって綴られていく文字を追いながら、エリックは言葉を失った。


『でも、あの時、本当はわたしの声は――……』


 なおもペンを動かそうとするレナの手に、エリックは自分の手をそっと重ねた。


「――もういい。もう、十分だ……」


 レナは手元の紙に視線を向けたまま固まっていた。


 エリックの反応が恐くて顔を上げられない。

 軽蔑されるだろうか。罵られるだろうか。きっと失望させたに違いない――。


 しかしエリックの口から吐き出されたのは、そのどれとも違う言葉だった。


「お前のことをわたしに話してくれて、ありがとう……」


 それを聞いた途端、レナの両の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。


 辛い記憶をたどったばかりの心に、温もりが滲んでいく。

 エリックに嫌われたのではないということになぜ自分がこんなにも安堵しているのかわからなかった。


『あの時――シルヴェストル家の庭で、あなたの手を叩いてしまったこと、ごめんなさい。本当はずっと、謝りたかった』


 健気に謝るレナの姿に、エリックもまた心の中に優しい熱が広がっていくのを感じていた。

 エリックは小さく首を振ると、そっとレナの頬に触れ、その顔を上げさせた。


「わたしたちは、どうやらお互いに誤解していたようだ……。もう少し早く、わたしがお前に歩み寄っていれば――勇気を持てていたら、お前に辛い思いをさせることもなかっただろうに……。本当にすまなかった」


 涙を流しながら首を振るレナに、エリックは小さく微笑んだ。


「過ぎてしまった過去をやり直すことは出来ないが……もう一度、わたしとここから始めてくれるだろうか?」


 わずかに頬を染め少しだけ自信なさげにレナを窺うエリックは、とても七つも年上の大人のようには見えなかった。


 まっすぐで、不器用で、だけどなぜか憎めない人。

 レナは今初めてエリックという人間の本質を理解できた気がした。


 レナが微笑んで頷くと、エリックはほっとしたように表情を緩めた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ