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1-2

 気まずい雰囲気のまま馬車は進み、やがてパレードのルートになっている大通りに着くと静かに停止した。


「どうやら、馬車で進めるのはここまでのようですね。ここから先は馬車を降りて、どうぞお二人で観覧なさってください」


 オリビアはエリックたちには愛想の良い笑顔を向けたまま、邪魔者を制止せんとばかりにアランの腕を押さえつけた。

 アランだって、自分の立場を理解していないわけではない。わかっていると言いたそうにオリビアの手を引き剥がすと、レナに声を掛けた。


「行ってらっしゃいませ、お嬢さん。どうぞ楽しんできてくださいね」


 心配そうな色を浮かべながらも笑顔で見送ってくれるアランに、レナも不安を悟られまいと笑顔を返した。


 ところが馬車を降りても、婚約者たちは言葉を交わそうとはしなかった。

 せっかくの逢瀬だというのに、手を繋ぐわけでも腕を組むわけでもなく、それぞれ反対側に並ぶ露天をぼんやりと眺めながら、二人は黙々と歩き続けた。


「――退屈な女だな」


 一瞬、どこから声が振ってきたのかわからなくて、レナはきょろきょろと辺りを見回した。めぐらせた視線が、ふと婚約者とぶつかる。


「――お前のことだ。もっとも、卑しい園丁とは気が合うようだが。さすが成金のウォルバートの娘。その派手なドレスも――目立とうとでも思ったのか? 品性の欠片もない上、頭も悪そうに見えるぞ」


 本当に、この生真面目そうな子爵が言っているのだろうか? レナは現実が受け入れられず目の前に立つ婚約者を凝視した。

 そんなレナの様子を見て、エリックはあきれ返った顔になる。


「そういうところが頭が悪そうだと言ったんだ。どうせこの結婚だって、親の言いなりなのだろう。わたしの父は社交界では顔が利く。父との繋がりを深めるため娘をシルヴェストルに嫁がせ、ウォルバートの家名に箔をつけさせるのが目的だろう。お前の父親は、喉から手が出るほど地位を望んでいるようだからな」


 ウォルバート家はレナの父の代から貿易を主とした商業で莫大な富を得た一家だった。資産だけならそこらの侯爵家にも劣らないため社交界でも一目置かれているものの、明確な社会的地位が無いことがウォルバート家の人間――特にレナの父親の唯一のコンプレックスだった。


 自分の家が世間からどのように思われているかは理解していたが、まさか婚約者から直接その手の嫌味を聞かされるとは思ってもみなかった。


 一方的に罵られ、さすがのレナもじわじわと怒りが湧いてくる。しかしいざ目の前の長身の青年を見上げれば、その鋭い眼光と威圧感に気圧されてしまいそうになる。逃げ出したい衝動を必死で抑えながら、なけなしの勇気を振り絞ると、レナは自分に出来る最大限の気迫を込めてエリックを睨み上げた。


「……なんだ、その目は? 文句があるなら、口で言ったらどうだ?」


 レナを煽るエリックはどこか楽しげにさえ見える。なるべく相手にしないでやり過ごそうと決めたレナは、ふいと横を向いてエリックを視界から消した。

 侮辱されたことは腹が立つが、父親がシルヴェストル家との姻戚関係をどれほど望んでいるかは嫌と言うほど理解している。自分がここで感情的になれば、多くの人間を失望させることになる。


 レナはもう、自分の愚かな振る舞いによって誰かが傷付くのを見たくなかった。


「ずいぶん従順なお嬢さんだな」


 突如エリックの手が伸びる。長い指は無遠慮にレナの細い顎を掴むと、無理やり自分の方へ向けさせた。


「……会食の席で引きつった笑顔を貼りつかせているお前を見たときから、退屈な女だと思っていた。違うというなら、反論して見せればいい。それとも、大切な爵位を持つ婚約者には、口答えなどしないように父親から言い含められているのか」


間近で見たエリックの瞳は宝石を閉じ込めたような鮮やかなブルーだった。長いまつげは髪と同じ銀色で、形の良い眉が苛立たしげに吊り上げられている。


婚約者から至近距離で見下ろされ、レナの頬は街頭に飾られた花よりも真っ赤になった。

 

 行き過ぎる人々がひそひそと耳打ちしながら、至近距離で見つめ合う二人を振り返って行く。レナは驚愕と羞恥に動くこともできなかった。公衆の場でこんな辱めを受けたのは初めてだった。


 それでも黙ったままのレナに、エリックはとうとうため息を吐くと、レナの顎から乱暴に手を放した。


「せっかくの逢瀬だというのに、愛を囁き合うどころか、口喧嘩も出来ないとは……。まったく、本当につまらん女だな」


 言い捨ててエリックが背中を向けた途端、その肩にレナの手が伸びた。


 少し強い力でトントンとエリックの肩を叩く。驚いたエリックが振り返ったその鼻先に、ずいっとレナの両手が迫った。


「!」


 一瞬、殴られるかと思って身構えたエリックだったが、レナの指はそのまますばやい動きで次々と何かの形を描いていく。



 ――それは、エリックが初めて見る手話だった。

 


 レナの指は白くか細かったが、その動きは力強く、怒りに満ちていた。

 レナはびしっと勢いよくエリックに人差し指を向けた。それから荒々しく掌を振るような仕草をし、左右の人差し指を寄り添わせたかと思うと、投げ捨てるように乱暴にそれを振り払った。

 そうしてわずかに涙の滲んだ瞳でキッとエリックを睨むと、踵を返して人ごみに消えて行った。


 エリックは後を追うことも声をかけることも出来ず、呆然とレナの後姿を見送っていた。


 やがてレナの姿がすっかり見えなくなると、エリックは呪縛が解けたように口を開いた。


「驚いたな……。あの娘、口が利けないのか……」


 手話の知識など皆無なエリックだったが、去り際にレナが言ったことだけはなんとなく理解できた。


『こんなの逢瀬じゃない。だってあなたとわたしは、愛を囁き合うような恋人同士ではないもの』


 そう言ったレナの声が聞こえたような気がしたのだ。


 レナの姿は、もう完全に見えなくなっていた。それでも、叱られて母親に置いてきぼりにされた子供のように、エリックは恨めしそうにレナの消えて行った人ごみをいつまでも見つめていた。


 自分を見上げるレナの表情――涙が滲むほどの強い嫌悪の表情が、瞼に焼き付いていた。

 エリックの胸を、よくわからない痛みが締め付ける。それはとても不愉快で、哀しい痛みだった。



 * * * * *



 ――そんな婚約者たちの様子を、通りの影から窺う男が居た。

 男はレナが立ち去ったのを確認すると、その後を追うようにして人ごみに姿を消した。


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