7-1
屋敷を追われたエリックとレナは、シルヴェストル家の領地からも城下町からも遠く離れた北の地にある小さな村に身を寄せていた。
村には二人のことを知る者はいなかったが、突然たいした荷物も持たず身一つ同然でやって来た二人を哀れな夫婦と思い温かく迎え入れてくれた。この異常な雪のせいで住む所を失くしたと言うエリックの言葉を信じたのだった。
二人は村のはずれにあった小さな空き家を借り、そこで暮らし始めた。
またしても家族から切り捨てられたエリックだったが、今度は一人ではなかった。その事実は温かな灯りとなって、エリックの心に灯っていた。
村での暮らしは今までの生活が嘘のように質素だった。立派な屋敷も無ければ、身の回りのことをしてくれる使用人もいない。自分たちのことは何でも自分たちでやらないといけないのだ。
食料も自分たちで調達しないとならないが、雪で畑仕事が出来ないため、森や川で生き物を捕ってくるか、町で買ってくるかしかない。
屋敷を追い出されるときに持たされたお金はわずかだ。それにこの地へ来るまでにもうだいぶ使ってしまっていた。
持ってきたささやかな荷物や衣類も金銭に換えてしまうと、レナは村人たちの仕事を手伝いその対価として少しの食料や薪を分けてもらうようになった。
口が利けないながらも、働けない夫を支え、素直で真面目に働くレナの姿は傍目にも健気に映り、皆移住してきた若い夫婦によくしてくれた。
まだ完全には傷が癒えていないエリックは、レナのように働くこともできず、密かにもどかしい思いを抱いていた。
外で働くレナの代わりにせめて家の中の仕事を手伝おうと思い立ち、床を拭き始めたものの、なぜか床は水浸しになるだけだ。仕方なく窓を拭き始めれば、不思議なことに窓は磨く前より曇ってしまった。
使用人たちは皆簡単そうにやっていたのに……。
せめて食事の支度くらいはしておこうと考え直し、台所に向かう。
料理などしたことはないが、一流の料理人が作ったものを食べてきたのだ。料理に入っていた素材から材料を想像し、同じような形に切って鍋に放り込むと、水を入れて火にかける。
「色が……透明すぎるな……」
台所を漁り、見つけた白い粉――小麦粉を入れてみる。なんだかとろっとしてシチューらしくなってきたが、やはり色は思い描いているようなクリーム色にならない。
そこへ、レナが帰宅する。
玄関のドアを開けるなり、レナは家の中の惨状に息を呑んだ。
窓辺や床は水浸し、バケツも雑巾も放り出したままだ。おまけになんだか焦げ臭い匂いが漂っている。
「!!」
レナは鍋に駆け寄ると、慌てて火を止めた。すさまじい勢いの炎で炙られていた鍋の中では、野菜の破片と思しきものたちが、焦げた茶色い塊の中に埋もれていた。
エリックは困惑した顔で部屋を見回すレナに恐る恐る声をかけた。
「その……何か役に立てればと思ったのだが……自分が思っていたより簡単ではなかったようだ」
ばつが悪そうに言うエリックを見て、レナは一瞬驚いた後、すぐに吹き出した。
「べ、別に……笑いたければ笑うがいい。家事などしたことがないのだから仕方がないだろう」
耳まで真っ赤に染めながらそっぽを向くエリックの姿は新鮮で、レナは初めてエリックの素直な表情を見た気がした。
レナはくすくすと笑いながら、置いてあった紙にペンを走らせる。
『仕事を手伝ってくれようとしたのね、どうもありがとう』
レナはエリックを責めるどころか、笑顔で礼を言うと、てきぱきと部屋の中を片付け始めた。エリックは呆然とその姿を見守るしか出来ない。
あっという間に部屋を元通りにすると、レナはエリックが切った不揃いなパンに、ハムとチーズを切り分けてテーブルに並べた。
促されて、エリックも食卓に着く。
レナは食事の間もずっと笑顔だった。
「……なぜわたしを責めない? お前の仕事を手伝うどころか増やしてしまったというのに」
ふてくされた顔でエリックが呟くと、レナは首を振った。
『責めることなんて何もない。あなたはわたしを手伝おうと思ってくれた。それだけでとても嬉しい』
エリックはレナの綴る文字を見つめる。
『それに、初めてのことを上手にできないのは当然。少しずつ、一緒にやって覚えていきましょう』
「だが……お前だって、屋敷で育ったのはわたしと同じはずなのに……。お前は立派に外で仕事もしている」
『仕事なんていうほど立派なことは出来ていない。赤ん坊のお守りや繕い物を手伝っているだけ。それだって、初めは見よう見真似で、今も周りに教えてもらいながらやっているもの』
「そうか……」
苦労させて申し訳ない――エリックは心の中でレナに謝罪した。彼のプライドが邪魔をして、どうしても声に出すことは躊躇われた。
レナは口が利けない上、彼女の手話を理解できる者も村にはいない。そんな不自由な状況でも、レナは文句一つ言わずに外で働き、エリックを支えてくれていた。
そのことに感謝していないエリックではなかったが、どうやってそれを表現したらいいのかわからなかった。こうして仕事を手伝おうとしてみれば、かえって彼女の仕事を増やしてしまう始末だ。
エリックは小さく深呼吸すると食事の手を止めた。
レナが反対側に座るエリックを不思議そうに見る。
エリックの大きな手がおずおずと胸の高さに上げられる。するとその長い指がぎこちなく動き、ゆっくりと形を変えていった。
『すまない』
それは、エリックが初めて見せる手話だった。
レナは驚いて、エリックの手ではなく、眉間に皺を寄せて手話を手繰るエリックの表情に目を奪われた。わずかに頬が赤い気がするのは、うろ覚えの手話を紡ごうとする必死さからだろうか、それとも単に慣れないことをして照れているのだろうか。
ともあれ、この意地悪で冷徹な青年が、自分のために手話を覚えていたことに、レナは純粋に驚き、そして感動していた。
『手話を覚えたの? どうやって? 一体いつから理解していたの?』
レナの手話による問いかけに、エリックは目を白黒させた。
「え? ちょっ……悪いが、もう少しゆっくりやってもらえないか」
レナは思わず顔がほころんでしまうのを必死で堪え、もう一度ゆっくりと指先から言葉を紡いだ。
「あ、ああ。なるほど。『どうして』か。『どうして手話を覚えたの?』か!」
少し違うが、レナはこくこくと頷いた。
「別に――ただの気まぐれだ。お前に悪口を言われても気がつかないのは癪だと思っただけだ」
『わたしは悪口なんて言ったりしないわ』
エリックはレナの指先の動きに目をしばたかせる。
「お、おい……! 早すぎるだろう。今のは全然わからなかったぞ」
レナはわざと知らん振りしてそっぽを向いて見せる。
「お前……なかなか良い性格をしているな……」
『あなたには言われたくない』
苛立たしげな声を出しながらも、疑問符を顔いっぱいに浮かべるエリックがおかしくて、レナは堪えきれずに笑みをこぼした。
『なぜ今まで手話がわかることを黙っていたの?』
「それは……お前の屋敷の世話係に言われたのだ。少し前までは、お前も普通に話が出来ていたのだと――……」
エリックは言葉を交わしたときのオリビアの顔を思い出す。
『少し前までは』と言った割に、彼女はずいぶん遠くを見るような目をしていた。
『――では、また以前のように話が出来るようになるかも知れないのだな?』
尋ねたエリックに、オリビアは沈んだ表情のまま力なく首を振った。
『声が出なくなってすぐだったら、まだ回復の見込みはあったのでしょうが……。お医者様は、話さなくなってから時間が経ちすぎていると』
『それはつまり、レナはこの先もずっと声を失ったままということか?』
『わかりません。何よりもまずは、お嬢様が声を出して話をしたいというお気持ちにならなければ。お嬢様の心が癒えなければ、再び声を出すことなど到底叶わないでしょう』
エリックはオリビアとのやり取りをレナに話して聞かせた。
「あれはまだ、お前がシルヴェストル家に来る前だ。花祭りでお前が口が利けないことを知ったわたしは、あのオリビアという世話係に話を聞きに行ったのだ。そのときにその話を聞いて、すぐに手話は学んだ。だが、お前の前ではなるべく手話を知らない態度で徹しようと考えた。手話が通じてしまうから声を出して言葉にする必要がなくなるのだ。手話を理解する者が近くになければ、おのずと声を出そうという気になるかもしれない、そう思って……」
そこでエリックは言葉を切った。形の良い眉が、どこか悲しげに歪む。
「だが、逆効果だったようだ。お前はシルヴェストル家で一人疎外感を感じ、部屋に閉じこもるようになってしまった……」
――わたしを頼ることもなく。
浮かんできた最後の言葉を、エリックは思わず呑み込んだ。
(わたしはただ、彼女に頼ってほしたかっただけなのだろうか――?)
そう思い至ったとき、エリックの心の中に、何かがすとんと納まったような不思議な感覚がした。
――ああ、そうだ。わたしはただ、レナにも自分を必要な存在だと感じて欲しかったのだ。自分がレナに対して抱いているのと同じように。
「初めて会ったときから、お前がわたしとの結婚を望んでいないことは明白だった。だからわたしはなるべくお前と距離をとった。愛想をつかされて出て行かれるよりも、たとえ嫌われていようとも、傍にいてくれた方がいい――……」
レナはエリックの言葉に驚いて、必死な様子でぶんぶんと首を振った。
それを見て、今度はエリックが目を丸くした。
「何を……まさか違うと言っているのか? だってお前は、あの時――あの花祭りの日に、わたしのことを睨んだではないか。わたしのことなど大嫌いだ、好きで結婚するわけではないという気持ちを込めて。手話でだって伝えてきた――自分たちは『恋人』なんかではないと」
レナは慌てた。思わず手が動き、手話で弁明する。
『それは――あなたが、わたしのことを馬鹿にしたから』
レナは目が覚める思いがした。
ずっと一方的に傷つけられてきたと思っていたが、最初に彼を傷つけたのは自分の方だったのだ。
思えば、エリックはレナを花祭りへ誘い出し、彼なりに婚約者との距離を縮めようと手を差し伸べてくれていたのに、その手を最初に振り払い、傷つけたのは自分の方だったのだ。
エリックはレナの手話を見て、それからレナの顔をじっと見つめた。
「そんな……。それでは、お前はわたしを嫌っていたのではないのか……?」
小さく頷くレナを見ながら、エリックは呆けた顔でそう呟いた。抱いたことのない感情が、胸の中で熱く熱を帯びていく。