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6-2

 アランはレナを待ち続けた。


 夜が明けて、朝になって、冷たい雨が降り始めても、アランは約束した杏の木の下でじっとレナを待っていた。


 雨が止み、また夜が来た。


 それでもレナは現れない。


 薄っすらと空が明るくなっていく。

 ああ、また朝が来るのか――。

 杏の花びらが一つ、また一つと舞い落ちていくのを、アランはぼんやりと眺めていた。


 薄紅色の小さな花びらは、一つ地に落ちると、その後を追うようにして別の花びらがくるくると舞いながら降ってくる。

 終わることのないその光景に、アランは時が止まったような不思議な感覚に襲われた。


 冬が終わりを迎えたとはいえ、朝晩はまだ肌寒い。そんな中を雨に濡れたせいか、体は冷え切っているのに、頭がぼかぼかと熱を帯びていた。


 アランの瞼が、ゆっくりと閉じられた。そのまま薄い眠りにつく。


 やがて日が高くなった頃、アランは目を覚ました。


 いつの間にか眠ってしまったらしい。

 飛び起きて傍らを見れば――そこにレナの姿はなかった。


 見渡せば、雨のせいで散り落ちた杏の花びらが、地面を白く覆い尽くしていた。


「雪みたいだ……」


 呟いたアランの瞳から、熱い涙がこぼれ落ちる。


(お嬢さんは、なぜ来てくれないのだろう……?)


 その問いに答える代わりに、ゆっくりと一つの足音が近付いてくる。

 アランはぼうっとする頭を振って翳む目を擦り、必死で前を見据えた。


「お嬢――……」


 声をかけようとして、視界に飛び込んできた人物の姿に言葉を飲み込んだ。


 散り落ちた花たちを踏みしめて現れたのは、あの黒ずくめの露天商だった。


「運命とは残酷なものだな。結局、あの娘をお前から取り上げ、子爵の元へ返したのだから」


 もうだいぶ前から、予想していた。あの人は、自分を選ばなかったのだ。


 だがそれはアランにとって容易に受け入れがたい答えだった。突きつけられた露天商の言葉を否定しようと、アランは立ち上がろうとした。しかし体が鉛のように重く、上手く起き上がれずに地面に膝をつく。


 その姿を見下ろして、露天商は哀れみの目を向けた。


「可哀想に。お前は裏切られたのだ。あの娘にも――運命にも」


 アランは思うように動かない体に苛立ちながら、露天商を睨み上げた。


「……お嬢さんは、俺を裏切ったりしていない。そんなことをするはずがない……」


 露天商は天を仰いで笑い声をあげた。そうしてアランに目を向けると、彼の懐を指差した。


「――信じられないなら確かめればいい。お前は鏡を持っているのだろう?」


 アランの体が、怯えたようにびくりと揺れた。その様子を見て、露天商はさらに笑う。


「なぜ鏡を見ない? そこにすべての答えがあるというのに、なぜお前は鏡を見ようとしない?」


「……さい……」


「教えてやろう。それはその鏡が真実しか映さないからだ。お前が望むと望まざるとに関わらず、鏡はお前が認めたくない真実しか映し出してはくれないからだ――!!」


「うるさい――!!!!」


 アランは吠えた。

 アランの怒りに呼応するように、突然雷鳴がとどろき、さっきまで明るかった空を再び曇天が覆う。


 やがて地面にぽつりぽつりと雨粒が落ち、いくつもの黒い染みを作っていく。

 次の瞬間にはざあっと音がするほどの豪雨が二人を包んだ。


「――お前は鏡に一番大事なことを聞いていない」


 男の声が、地べたを這う狡猾な蛇のように不気味な影を帯びてアランの胸に迫る。


「……うそだ……」


 無意識にアランの口から声が漏れる。


「嘘じゃない。お前は何よりも重視すべきことを確かめていない」


「……嘘だ……。そんなの嘘だ! 俺はお嬢さんを愛している! 鏡だってそう言っていた! この世で一番あの人を愛しているのは、この俺なんだ……! それ以外に大事なことなんてない!!」


 露天商はふっと笑みを浮かべた。


「果たしてそうかな? もっと大切なことが――尊重すべきことがあるのではないか?」


 アランの体がびくりと跳ねる。


「そう、例えば――」


「……めろ……」


「あの娘がこの世で一番愛しているのは誰か――」


「やめろおおおおおおおお!!!!」


 アランの絶叫が、灰色の豪雨の中に響き渡る。

 皮膚を打ち付ける激しい雨に身を晒しながら、やがてアランは何かを悟ったようにはたと顔を上げた。


「……あの男のせいだ……」


 アランの目は怒りに大きく見開かれていた。

 瞳は輝きを失い、深遠な闇だけがただそこにあった。


「あの男のせいなんだ……。全部――あの男が悪いんだ……」


 口の中で呪文のように繰り返すアランの頬を、悔し涙が流れ落ちていく。

 アランは何かに取り憑かれたようにゆらりと立ち上がると、一面の白い世界をふらつく足でゆっくりと歩き出した。


 露天商は胸が高鳴るのを必死に堪え、アランの背中を押すように優しい声をかける。


「そうだ。お前が悪いんじゃない。お嬢さんが悪いわけでもない。あの子爵がお前たちの世界に突然現れ、横からすべてを奪い去ったのだ。無慈悲で、残酷な、あの忌まわしい子爵が、お前から尊いものを取り上げたのだ――」


 アランは目を見開いたままゴクリと唾を飲み込んだ。髪も服もずぶ濡れで寒いはずなのに、体中を不思議な熱が犯していく。


「そうだ……全部、あの男が悪いんだ……」


 暗く淀んでいたアランの双眸に、小さな火が灯る。


「あの男さえいなければ……そうすれば、俺もお嬢さんも救われたのに……あいつさえ、いなければ……っ!!」


 瞳に宿った小さな火は、炎となって燃え広がり、悲しみの心を焼き尽くす。

 悲しみの後に生まれ出でたのは、計り知れない怒りだった。どす黒い影を帯びた嫉妬、執着だった。


 激しい怨嗟の念に身を委ねるアランに、露天商は言った。


「あの子爵が憎いか? だったら、忌まわしいものなど全て消してしまえばいい。お前もお嬢さんに言っていたじゃないか。他者の平安をぶち壊してでも、自分から手を伸ばさないと幸福は得られないと。不幸とどちらを選ぶかは自分自身だと。運命は理不尽だ。なぜお前に不幸を与え、子爵にばかり幸福を与える?」


 露天商の言葉に、アランの瞳に明確な決意が宿る。

 それは研ぎ澄まされた刃よりも鋭く、残忍な輝きを帯びていた。


「運命があいつを不幸にしないというのなら――俺がやる。俺があいつからすべてを奪ってやる――」


 自分の口からこぼれ落ちた言葉に、アランの唇が思わず歪む。


 ――そうだ。初めからそうしていれば良かったんだ。


 さっきまで、水分を含んだように重くなっていた心が嘘のようだ。沈み込んで鈍くなっていた思考が、急に明瞭になる。


 アランは降りしきる豪雨の中、天を仰いで呵呵大笑した。

 その不気味な咆哮は雷鳴と共に轟き、湿った空気をびりびりと震わせた。



  * * * * *


 

 その夜、シルヴェストル家は何者かによって放火された。


 火は瞬く間に燃え広がり、あれほど大きくて立派だった屋敷をあっという間に呑み込み、無残に焼き尽くした。


 幸い火に気が付くのが早く、屋敷の者たちは皆無事に避難した。大怪我を負っていたエリックも家人たちによって運び出され、何とか火から逃れることが出来た。


 火から逃げる際、屋敷の近くをうろつく不審な人物を見たという者が何人かあった。

 エリックとレナは真っ先にあの襲撃をかけてきた黒ずくめの男を思い浮かべたが、皆の証言はまったく別の人物のものだった。


 その不審な人物は、黒い髪をした小柄な少年だった――と。


 それが西の別館に閉じ込められていたウォルバート家の園丁だということは、すぐに人々に知れ渡った。

 その噂は屋敷の人々の間だけではなく、近くの街の人々の間にも瞬く間に広がった。

 シルヴェストル家の奥方が、若い男と密会していたのを見たという者も何人かあり、噂は派手な尾ひれを付けて、やがてシルヴェストル家が収める土地全体に広まっていった。


 エリックの父は息子から爵位を取り上げ、シルヴェストルの名を汚した二人を遠い北の地へと追放した。

 レナの父もまた醜名を着せられた娘をウォルバートへ呼び戻すことはせず、下世話な悪評から庇おうとはしなかった。


 ――一つ、不思議なことがあった。


 季節はもうすっかり春だというのに、シルヴェストル家が燃え落ちた翌日から、雪が降り始めたのだ。


 季節はずれの雪は、休むことなく静かに降り続けた。


 まるで地上にあるすべての罪を、覆い隠そうとするかのように――。



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