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6-1

 屋敷で働く使用人たちも皆寝静まった真夜中、レナは誰にも気付かれないようにそっと寝台から身を起こした。


 エリックが寝ているはずの続きの間は、明かりが消されしんと静まり返っている。よく耳を澄ませば、微かな寝息が聞こえてくる。

 どうやら、エリックは眠っているようだ。安堵して、レナはゆっくりと寝台から降りた。


 窓の外では、濃紺の闇に浮かぶ月が煌々と輝いている。

 約束の時間を過ぎてしまったが、アランはもうあの木の下に着いているだろうか。


 早く行ってあげなければと逸る気持ちと、本当にこれでいいのかと自問自答する気持ちが、レナの小さな胸の中で交錯する。


 躊躇いを抱きながらも、レナは足を上げ、一歩を踏み出すことを選んだ。

 寝台に掛けてあったショールを羽織ると、できるだけ音をたてないように歩き出す。


 ベッドがある寝室部分にドアはないため、部屋を出るには書斎部分にあるドアを使うしかない。すなわち、エリックが寝ている長椅子の後ろを通ってドアを出ていくしか道がないのだ。


 レナの喉が、緊張でゴクリと鳴る。

 気合を入れるようにぎゅっと手を握り締め、勇気を振り絞って、ついに寝室部分から足を踏み出す。


「――どこに行くの?」


 吐息がかかるほどの耳元で囁かれ、レナは思わず悲鳴を上げてしまいそうになる。慌てて両手で口を押さえ込むと、すぐ近くにある長椅子を見た。


 こちらからは長椅子の背に隠れて顔は見えないが、伸びた足が確認できる。あの履物は確かにエリックのものだ。


 エリックはそこで寝ているはずなのに……。


 嫌な汗が、背中を滑り落ちていく。レナは恐る恐る声のした方を振り返った。


(誰も、いない……?)


 振り返った先には誰の姿も見えなかった。

 代わりに、さっきまで確かに閉まっていたはずの窓が開け放されている。

 不思議に思いながら冷たい夜気に揺れるカーテンを見つめていると、今度はさっきと反対側の耳元で声がした。


「――こっちだよ、『お嬢さん』」


 レナは反射的に後ずさった。

 胸の中で心臓がばくばくと激しい音をたてる。

 恐怖に息を呑んでいるレナに、声の主はゆっくりと近付いてくる。


「もしかして、あの子の所に行こうとしてるの……?」


 声の主は仄かに差し込む月明かりを避けるように立ち、甘えた声でそう尋ねた。

 真っ暗な室内でははっきりと姿が確認できないが、声から察するにどうやら若い男性のようだ。


 男に追い詰められるようにして、レナはじりじりと寝室の奥へ後退した。すぐに膝の後ろがベッドの端にぶつかり、そのままベッドに腰掛けるような形になる。


 それでも男はレナに近付くのを止めない。

 ついにすぐつま先の前に立つと、座ったまま動けずにいるレナをゆっくりと見下ろした。


「――行っちゃ駄目だよ。そんなの、ずるいじゃないか……」


 レナはふと男が何かを持っていることに気が付いた。

 それが刃の厚いナイフだと理解したときには、男はそれを頭上に振りかぶっていた。


 窓から差し込む月光が当たり、鋭い刃が不穏に煌く。

 男は頭上に掲げたナイフの切っ先をまっすぐレナに向けた。


「許さないよ……あいつの所に行くなんてさ……。あいつだけ幸せになるなんて……そんなの絶対に許さない――!!」


「――!!」


 男は、躊躇いなくレナに向けてナイフを振り下ろした。

 レナは逃げることも声を上げることもできず、きつく目を閉じた。


「……?」


 しかし振り下ろされたはずのナイフは、いつまで経ってもレナに届くことはなかった。

 恐る恐る薄目を開けてみると、男のナイフを握った両手を背後から掴み上げている者がいた。


「――貴様、一体何者だ……?」


 エリックは冷徹な声で男に尋ねると、握ったままの手を容赦なく背中の方へ捻った。


「く……っ!」


 痛みに耐える声が男の口から漏れ、緩んだ手からナイフが乾いた音をたてて床に滑り落ちる。


「――ナイフを拾え! 早く!!」


 鋭く指示されて、レナは我に返ると慌てて床に転がるナイフを拾い上げた。

 それを確認すると、エリックは男の両手を掴んだまま、腹部に激しい膝蹴りを加えた。


「うっ!!」


 短く呻いて、男は床に膝を付く。その背中にもう一撃蹴りを入れられると、ついに男は床に這い蹲る格好になった。


 エリックは男が動けないのを確認すると、レナの手からナイフを受け取り、男の喉元に冷たい刃を当ててみせた。


「――言え。貴様は一体何者だ? なぜこいつの命を狙う?」


 答えの代わりに返って来たのは、くつくつという笑い声だった。

 男は首にナイフを突きつけられているというのに、恐怖する様子も悔しがる様子もなく、ただ堪えきれないとばかりに小さく笑い続けた。


「何が――」


 おかしいのか。そう聞こうとしたエリックの腹部を、重く鋭い音が貫いた。

 激しい衝撃と痛みに、今度はエリックが膝を付いて床に崩れ落ちる。


 瞬時に漂う血液の臭い。

 男は隠し持っていたもう一つのナイフでエリックの腹部を刺し貫いたのだ。


「――!!」


 レナが声にならない悲鳴を上げる。男はエリックの体を足で転がして彼がもう動けないことを確認すると、冗談めかした声で言った。


「――言い忘れてたけど、僕は二刀流なんだ」


 男は目深に被ったフードからのぞく口元をにんまりと笑みの形に変えてレナに向き直った。尋常でない事態に付いていけず、レナの足は逃げようとしても震えて言うことを聞かない。


「……大人しく子爵を選んでいれば良かったのに――あんまり、僕の手を煩わせないでくれる……?」


 笑顔のまま、男はナイフを振りかぶった。

 純粋な殺意の乗った切っ先が、まっすぐレナに向けて落とされる。


「レナ――!!」


 叫び声と共に、レナの体に誰かがぶつかる。


 肉を裂く鈍い音がして、レナは自分の上に覆い被さるエリックを見た。背中に突き立てられたナイフは、暗い室内でもわかるほど赤く染まっていた。


 男は短く舌打ちすると、エリックの背中から容赦なくナイフを引き抜いた。


「ぐあ……っ!!」


 強烈な痛みに、思わずエリックの体が小さく仰け反る。


 男はエリックの様子など気にも留めずに、まっすぐレナを見据えていた。

 再びナイフを構えようとしたとき、廊下を駆けて来る複数の足音が響いた。


「旦那様、どうかされましたか? 先ほどこちらの方から声が聞こえましたが」


 ドアの外で使用人らしき男性の声がすると、男は苛立たしげにもう一度舌打ちした。そうして開いたままの窓から滑るように飛び出していった。


 入れ違いで、使用人たちが部屋に入ってくる。すぐに明かりが灯され、露になった凄惨な室内の様子に、さっきまでの張り詰めた空気が嘘のように騒がしくなる。


 レナは自分の腕の中にいるエリックを見た。明かりの下で見ると、その出血はおびただしいものだった。身に付けている衣服はもちろんのこと、絨毯にも、大きな赤い染みが広がっていた。


 レナは動く気配のないエリックの頬にそっと触れた。

 途端、わずかに銀色のまつげが震える。


「!!」


 まだ息があることに安堵して、レナは優しくエリックの頬を叩いた。

 細く瞼が開いて、ブルーの瞳が何かを探すように彷徨う。やがてレナを見つけると、安心したように微かに微笑んだ。


「無事……か……」


 掠れた声が唇から漏れ、エリックは再び意識を失った。


 レナは腕の中で弱々しく息をするエリックを見つめた。


(わたしはこの人を裏切ろうとしていたのに……。それなのにこの人は、身を挺してわたしを庇ってくれた。こんなにひどい傷を負ってまで、わたしを守ってくれた……)


 レナの胸に、味わったことのない感情が沸き上がる。罪悪感と感謝、悲しみと喜びが入り混じった複雑な気持ちに、胸が切なく締め付けられる。

 レナはたまらなくなって、その血だらけの体をそっと抱きしめた。


 その後駆けつけた医師によって迅速な処置を受け、エリックは何とか一命を取り留めた。

 レナは手当てを受けるエリックの隣にいながらも、白んでいく空に焦りが募った。


(アランに今は行くことができないと伝えないと――。こんな状態で、この人を置いては行けないもの……)


 その時、使用人の女がレナに近寄ってきた。


「あの……先ほど門番から連絡がありまして。アランという若者から言付かったそうです。『今は自分のことは構わず、子爵様についていてください。自分は一度屋敷に戻ります』と――」


 レナはアランの優しさに胸を突かれた。こんなときでも、アランは自分を思いやってくれているのだ。


 きっと約束の時間になっても現れない自分を心配して、屋敷に様子を見に来たのだろう。そのときに家人からエリックの事を聞いたのかもしれない。

 アランのことを考えると心苦しい気持ちになった。だが今は、素直にその優しさをありがたいと思うのも事実だった。


(アランには後で必ずお詫びの手紙を書こう――)


 レナは改めて目の前にあるエリックの顔を見つめた。

 エリックの額に滲む汗を柔らかな布でそっと拭ってやる。あれほど心を覆っていた暗い靄が、今は薄らいでいることが自分でも不思議だった。



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