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5-3

 アランと別れ屋敷へと戻るレナの足取りは、来たときよりも重くなっていた。


 部屋を抜け出したことが既にエリックに気付かれているのではという不安はもちろんあったが、理由はそれだけではなかった。


 月の薄明の中で見る庭木は色を失い、本物の棺のようだった。レナは薄ら寒い気持ちになって、足早にその間を通り抜けた。


 整然と整えられた庭木の向こうに、小さく池が見えた。同じ敷地内にありながら、レナはその池に近付いたことがなかった。

 月明かりを映してキラキラと輝く黒い水面は神秘的で、まるで不思議な魔力を秘めた鏡のようだった。

 レナはウォルバート家の庭にあった池を思い出す。こうして実家を離れても、決して犯した罪からは逃れられないのだと言われている気がした。


 ふと水面に女の顔が見えた気がして、レナは弾かれたように池から顔を背けた。

 こんな遠くからそんなものが見えるわけがないのに、女の顔は目を閉じても消えないほどはっきりと瞼に焼きついていた。


 胸が嫌な速さで脈打つ。

 思い出したくない記憶が、否応無く蘇ってくる。


 母の死。満開の桜の木。冷たい自分の声。父の傷付いた横顔。振り払った手の感触。


 池の中から伸びた、白い腕――。



「たすけてええええええええええええ!!!!」



 耳を劈く悲鳴が聞こえた気がして、レナは耳を塞いでその場にうずくまった。


 体が抑えようもなく震えて止まらない。

 心臓の音が早すぎて、胸が苦しい。息が出来ない――。


「レナ――!?」


 前方の暗闇から声がして、レナはわずかに顔を上げた。

 月明かりに照らし出された人物を見て、頭が真っ白になる。

 現れたのは、今ここで一番見つかりたくない人物――エリックその人だった。


 エリックは、冷たい石畳の上に手を付いてうずくまるレナを見つけると、かつかつと靴を鳴らして近付いてきた。

 レナは青い顔でうつむいたまま、顔を上げることができない。

 エリックに見つかってしまった。一体どう言い訳したら納得してもらえるのだろう。その答えを見つけるより早く、エリックのよく磨かれた革靴の先がレナの眼前で止まった。


「……ここで、何をしている?」


 頭上から落とされた声音は氷のように冷たく、レナの体に震えが走った。


「あいつに、会いに行っていたのか……?」


 エリックはレナの横に転がっている籠を一瞥した。落としたときに中身が散らばり、消毒液や包帯が露になっている。それが答えだというように、エリックは不愉快そうな視線をレナに戻した。


 エリックは自分の足元で体を縮ませて怯えるレナに視線を落とした。暗い石畳を見つめたまま固まっているレナに、エリックの大きな手が伸びる。そのままレナの手首を掴んで強引に立ち上がらせると、今度はレナの顎をつかんで無理やり自分の方に向かせた。


「なぜそんなに青い顔をしている? 偲んであの園丁に会いに行ったことがわたしに知られ慄いているのか?」


『そんなにわたしが恐ろしいか――?』エリックはその問いを飲み込んだ。聞いてしまったら、何かが終わってしまう気がしたのだ。


 間近でのぞきこんだレナの瞳には、月光に暴かれた醜く歪んだ自分の顔が映っていた。

 自分はいつも、こんなにも恐ろしい表情を彼女に向けていたのか――そう思い至り、エリックは弾かれたようにレナの顎から手を離した。


「――戻るぞ」


 レナは抵抗することなく、手を引かれるまま大人しく従った。

 その従順さが、なぜかエリックの心を激しく掻き乱した。


 部屋に着くと、エリックはレナの背中を押して強引に寝室に進ませた。

 振り返ることも出来ずにいるレナの背中に、思いがけない言葉が投げられる。


「わたしはこの長椅子で休む。ベッドはお前が一人で使え」


 エリックの言葉に拍子抜けして、レナは思わずエリックを振り返った。しかしエリックは既に背中を向けており、その表情は見えなかった。


「わたしはまだ仕事が残っている。お前は先に休め」


 そう言って机に座り書き物を始めたエリックを、レナは訝しげに見つめた。

 レナは机の上にあったペンを取ると、落ちていた紙に文字を綴った。


『アランのところで何をしてきたか聞かないの?』


 エリックは、自分のペンを走らせる手を止める。顔は上げずに、レナの書いた文字を見つめた。


『どうしてわたしを責めないの?』


 エリックはしばらく無言でその儚げな筆跡を見つめていたが、小さく息をつくとレナを見上げた。


「責めて欲しいのか? それは、責められるようなことをしたという自覚があるということか?」


 そう問うたエリックが、理不尽な暴力を振るわれた子供のように傷付いた表情をしていて、レナは思わず息を呑む。


 またこの表情だ。どうしてこの人が、こんな悲しい表情をするのだろう。


(この人はわたしのことなどただの所有物としか思っていない……。わたしから自由を取り上げ、自分の思い通りに従わせようとするひどい人のはずなのに……)


 理不尽な仕打ちを受けて悲しい思いをしているのは、自分の方だったはずだ。それなのに、これではまるで自分の方が彼を傷付けているみたいではないか。


 エリックの表情に戸惑いながらも、レナはさらにペンを走らせる。


『アランを出してあげて』


「出してやるとも。お前の実家から迎えが来ればな」


『そうではなくて、あんな寒い場所に何日もいたら、風邪を引いてしまう。怪我だってしているのに』


「安心しろ。人はあの程度では死なない」


 言い切ると、エリックは会話は終わりだとばかりに再び書き物を始めてしまう。

 明確に示された拒絶に、レナは仕方なく寝室に足を向ける。


「――おい」


 ふいに声がかけられ、レナは振り返った。エリックは、妙に真剣な顔つきでレナを見据えていた。


「お前は、あいつのことを――……」


 言いかけて、エリックは口を噤む。続きを促すようにレナが小首を傾げると、エリックはため息とともに首を振った。


「――いや、何でもない。いいから早く寝ろ」


 エリックは机に目を落として仕事を再開すると、それきりレナの方へ顔を上げなかった。


 レナはすっきりしない気持ちのままベッドに腰掛けると、灯されていた明かりを消した。

 とはいえ、寝室部分とエリックのいる書斎部分とは隔てる扉がなく間続きになっているため、エリックのいる部屋から差し込む明かりで室内は薄明るい。

 ベッドから仕事をするエリックの姿は見えなかったが、カリカリとペンを走らせるささやかな音が聞こえてくる。


 レナは静かに体を横たえた。目を閉じて、波立つ心を鎮めようと努める。今日は色々なことがありすぎて、心も体も疲れきっていた。


 こうしている間にも、刻一刻とアランとの約束の時間は迫っている。


 アランの、日に焼けた無邪気な笑顔が瞼の裏に浮かぶ。


(アランはわたしを信じて疑わないだろう。アランはいつだって、温かな日差しのように柔らかくわたしを守り、尊び、どんなときでも必要としてくれた。絶対に、わたしを傷つけたりはしなかった。いつでも優しく寄り添ってくれていた……)


 それなのに、さっき見たエリックの顔が脳裏に焼きついて離れない。


 エリックが時折自分に向ける、傷つけられた子供のような表情が、レナの心を無性にざわつかせた。



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