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5-2

 屋敷に連れ戻されたレナは、自分の部屋ではなく、どういうわけかそのままエリックの部屋に連れて行かれた。


 てっきりまた自室にこもる生活に引き戻されると思っていたレナは、手を引いたままのエリックを不思議そうに見上げた。

 レナの疑問を読み取ったのか、エリックは短く答えた。


「婚姻を早める。あさってには式が挙げられるよう手配した。今日からは、お前もここでわたしと一緒に生活するんだ」


 驚きを露わにするレナに、エリックは眉をしかめた。


「何を驚くことがある? わたしたちはもう夫婦になる。同じ屋根の下にいながら別々の部屋で生活していたことの方がよほど不自然なことだったのだ」


 エリックの言葉はもっともだったが、レナは動揺を隠せなかった。

 部屋を見回せば、正面に仕事用の大きな机と天井まで迫る本棚、簡単なテーブルセットがある。最低限の家具しかない飾り気のない部屋は続き間になっていて、その向こうにある寝室には大きなベッドが一つだけあった。


 自分の部屋にあるのとは違い、大人が二人並んで横になってもまだ余るくらいの大きさのベッドは、明らかに一人用に作られたものではない。


 男女が同じ部屋で暮らすことの意味を目の当たりにし思わず身構えるレナを、エリックは問答無用とばかりに寝室まで連れて行くと、放るようにしてレナをベッドの上に転がした。


「――!!」


 衝撃にレナが目を閉じている隙に、エリックはいとも簡単にレナの両腕を押さえこむと、冷たいシーツの上に組み敷いた。


 目を開けたレナの眼前に、エリックの端正な顔が寄せられる。


 レナは驚きと恐怖に息を呑んだ。押し付けられるエリックの体から懸命に逃れようと身をよじるが、枕元に押さえつけられた両腕はびくともしない。


 必死に抵抗するレナを見て、エリックの長いまつげが悲しげに揺れる。

 しかしそれも束の間で、次の瞬間エリックはレナの表情から逃れるように彼女の白い首元に唇を寄せた。


「――ぁ……!!」


 首元に走る焼け付くような感覚に、レナの体がびくんと大きく跳ねた。


 喉の奥から、声になりきらない悲鳴が漏れると、レナの手首を押さえつけるエリックの手に一層力がこもった。

 エリックの唇はむさぼり付くようにレナの白い肌の上を這う。


 しかし間もなくエリックは何かに耐えるようにぐっと奥歯を噛み締めると、不意にレナの上から体をはがした。


 レナはすぐには起き上がることが出来なかった。天井を見上げたまま恐怖に見開かれた両目から、一筋の涙が頬を伝い落ちていく。


 エリックは小刻みに震えているレナに視線を向け、すぐに目を背けた。

 全身で自分を拒絶するレナを見ていられなかった。


 エリックはレナから眼を背けたまま、抑揚のない声を投げた。


「今夜から、お前にもここで寝てもらう」


 薄暗い室内でも、レナの肩が小さく跳ねたのがわかった。エリックはレナが自分に向ける恐怖を見ないようにしながら言葉を続けた。


「これは決定事項だ。お前に拒否する権利はない」


 怯えきっているレナは、反抗する気力もないようだった。

 エリックは背中を向けると、もうレナのいる方を見ようともしなかった。


「部屋を出るときはわたしの許可を取れ。無断で出歩くことは禁止する。食事もここへ運ばせる」


 そう言い置いて、エリックは静かに部屋を出て行った。


 扉が乾いた音をたてて閉められると、レナの虚ろな瞳から涙が一筋流れて落ちた。


 

  * * * * *



 別館の地下室には明り取りの窓すらなく、部屋というよりももはや独房に近いものだった。


 やっと足を伸ばして横になれるくらいの狭い室内に窓はなく、鉄製の頑丈な扉が一つあるだけだった。


 アランは部屋の隅に膝を抱えてうずくまった。春先とはいえ深夜の冷たい空気と熱を拒む固い床が、アランの体から容赦なく体温を奪っていく。


 ふと、床に触れた指の先が、落ちていた何かにぶつかる。


「……?」


 アランは小さなそれをつまみあげた。暗くてよくわからないが、形から察するに飾りボタンか何かだろうか。ずいぶん小さいから、子供服のものかもしれない。


(なんでこんな所にこんなものが……)


 不思議に思いながらも、アランはそれをポケットにしまった。


 エリックはウォルバート家に迎えを寄越させると言っていた。ウォルバート家に情報が伝わり自分を連れ戻しに来るまでには、どんなに早くても四日はかかるだろう。


 それまでに、何とかしてレナを救出しなければならない。


 アランは用心深く扉に耳を当てると、部屋の外の様子を窺った。

 外に人の気配はない。さっき自分を閉じ込めた警備の男が、後でまた様子を窺いに来るからなと念を押して去って行ったが、どうやら扉に鍵を掛けてあるだけで、見張りも立てていないらしい。


 アランはエリックの浅はかさに思わず笑みを浮かべた。

 窃盗団に身を置いていたアランにとって、鍵開けなど容易なことだ。アランはポケットから昔の習慣でいつも持ち歩いている小さな針金を取り出すと、慣れた手つきで扉の鍵穴に差し込んだ。


 その時、扉の外から誰かが近付いてくる足音が聞こえてきた。


 アランは瞬時に針金を隠すと、扉に耳を当てる。足音はゆっくりだが確実にアランのいる部屋へと近付いてくる。


 やはり近くに警備の人間がいたのだろうか。それとも、定期的に見張りの者が回ってきたのか――。


 アランが息を潜めていると、足音はとうとう扉の前で止まった。扉の下の僅かな隙間から、カンテラか何かの明かりが差し込む。


 足音は聞こえない。カンテラの明かりも動くことはなく、遠ざかる気配もない。どうやら足音の主は、扉の前に立っているらしい。


 アランはゴクリと唾を飲み込んだ。扉の前でこちらの様子を窺っているのだろうか。

 ここから出ようとしていることを悟られてはならない。

 アランは音をたてないように扉から離れようとした。


 その時、コンコンと控えめに扉がノックされる。


 アランは扉の前で固まった。しかし考え込んだのはわずかで、すぐに思い至るとアランは扉の向こうに向けて声を発した。


「――お嬢さんですか?」


 肯定するように、外から扉が開かれる。そこにいたのは、カンテラと小さな籠を手に立つレナその人だった。


 アランはレナに抱きつきたくなる衝動を押さえ込んだ。

 どうやらどこも怪我などはしていないようだ。レナが無事な姿に思わずほっとする。


 レナもまた、アランの怪我を見て心配そうに眉を寄せた。


『怪我は大丈夫? 手当てするから見せて』


 手話でそう言うと、レナは持っていた籠から消毒液と白い布を取り出した。


「心配してくださってありがとうございます。やっぱり、お嬢さんは優しいな……。でも大丈夫ですよ。こんなの、全然たいしたことありませんから」


 そう言って笑顔を見せるアランを、レナは痛々しそうに見つめた。


『でも口のところ、血が出ている』


 レナはそっとアランの頬に触れた。レナの指の冷たく滑らかな感触に、アランの頬は真っ赤に染まる。

 そんなアランの様子に気付くことなく、レナは消毒液を染み込ませた布をアランの口元に当てた。


「痛っ!」


 アランが思わず声を漏らすと、レナは慌てて手を止めた。


『ごめんなさい! 少し強く押さえすぎてしまったみたい』


 自分の頬から離れた手を、アランの手が名残惜しそうに掴んだ。


「離さないで……お願いです」


 今度は、レナの頬が赤く染まる。

 大人びた目つきで自分を見つめるアランに、レナは先刻の告白を思い出す。


『――あんたと違って、俺はお嬢さんを愛している』


 レナはすぐ目の前にある、少年の顔を見つめた。


 ――本気で言っているのだろうか。そう思いつつ、心のどこかでは既に理解している自分がいた。


 考えてみれば、アランはいつも自分にまっすぐな好意を向けてくれていた。何も意外なことなどない。

 ごく当たり前に――呼吸するように、アランは自分を愛してくれていた。


 仄かなカンテラの明かりに照らされているせいか、アランの日に焼けた肌は薄っすらと赤みを帯びて見える。


 黒く澄んだ瞳が、曇りなく自分を見つめ、求めていた。


 無条件に自分を愛してくれる優しいこのまなざしに頼り、委ね、甘えられたら――。この人だったら、この辛い現実から自分を温かく包み込み、救い出だしてくれるかもしれない。


 レナは吸い寄せられるようにしてゆっくりとアランに顔を近づけた。


 互いの鼓動が聞こえるほどの距離で、二人の潤んだ瞳が重なる。


 ゆっくりと唇が近付き、触れるか触れないかのところでぴたりとアランが動きを止めた。


「……お嬢さん……これ……どうされたんですか……?」


 アランの声は僅かに震えていた。

 見開かれた目はレナの肩口に注がれたまま動かない。

 レナは慌てて首の痣を手で覆い隠した。


 だがその手は、アランによって引き剥がされる。

 カンテラの明かりに照らし出された生々しい唇の痕を目の当たりにして、アランの体にどす黒い感情が湧き上がっていく。


「あの男がやったんですね……あいつが……こんな……お嬢さんに、こんなことを……」


 アランの視線を受けて、レナは恥辱に頬を染めた。悲しげに伏せられた瞼の端に涙が滲むのを見て、アランはその痣が無理やりに付けられたものだと悟る。


「……お嬢さん、恐かったですよね……。俺があの時、お嬢さんを守れていたら……。この手にもっと、力があったなら……っ」


 苦しげに自分を責めるアランを、レナは首を振って否定した。


 レナの優しさに目を細めると、アランはそっとその頬に手を伸ばし、指先で優しく涙をぬぐった。


「……でも、もう大丈夫です……。俺がきっと、お嬢さんをお救いしますから……」


 控えめにレナを抱き寄せ、労わるようにその背中を撫でるアランの表情は、心を占める激情とは裏腹にひどく穏やかだった。


 レナは縋るようにアランの胸に顔をうずめた。


 自分の胸の中にある怯えきった小動物のような小さな息遣いが、狂おしいほど愛おしい。

 アランが震える髪を撫でようとしたとき、レナが急に顔を上げた。


『もう戻らないと、あの人に見つかってしまう』


「見つかるって……どういうことですか? まさかお嬢さん、あいつに監禁されているんですか……?」


 答えを躊躇うレナを見て、アランはすべてを察した。


「やっぱり、ここを出ましょう。それもなるべく早い方が良い」


 驚いて顔を挙げたレナの目前にあるアランの瞳は、揺るぎない決意に満ちていた。


「今夜、月が一番高く上った頃に、今日二人で見た杏の木の下で落ち合いましょう。夜の見回りが立ち去ったら、俺は一足先にここを出ます。門番がいるので二人で門を出るわけには行きませんから、俺はどこか他の場所から脱出します。――ああ、俺のことでしたら心配は要りません。俺は鍵明けが出来ますから。多分、ここから逃げること自体は、そんなに難しくないと思います。お嬢さんは子爵が寝付いた後――頃合を見て屋敷を抜け出してきてください。お嬢さん一人なら、門番はどうとでもなります。庭園に怪しい男がいたので子爵を呼んで来て欲しいとでも言って、その隙に出てくればいい」


 不安そうな表情を浮かべるレナに、アランは笑顔を向けて見せた。


「大丈夫です。きっと上手くいきますよ」


 レナは迷いをその中に閉じ込めるようにぎゅっと手を握った。その手を、アランの骨ばった両手がそっと包み込む。

 アランはレナを曇りも疑いもないまっすぐな瞳で見据えた。


「――俺、ずっと待っていますから。お嬢さんが来てくれるまで、ずっと……」



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