5-1
アランはシルヴェストル家の屋敷から程近い繁華街に宿をとっていた。
別荘地として有名な地域だけあって、街にはいくつもの宿泊施設が軒を連ねている。アランが泊まっているのは、その中でも一際古く簡素な宿だった。
レナは路地裏にひっそりとたたずむ宿を見上げた。園丁見習いの決して多くない給金を費やしてまで自分に会いに来てくれたと思うと、嬉しいような申し訳ないような複雑な気持ちになった。
遠路はるばるやってきたアランに街を案内したいと思ったものの、自分もシルヴェストル家に来たときに馬車で通ったくらいでこの街のことをよく知らないのだった。
情けなさそうに肩を落とすレナに、アランはなぜか嬉しそうに頬を染めて笑顔を向けた。
「良いんですよ、お嬢さん。俺はお嬢さんと二人でこうやって歩いているだけで楽しいんです。二人きりで街を歩くなんて、初めてのことですから」
そういえば、街へ出かけるときにはいつでもオリビアが一緒だった。懐かしい顔を思い浮かべ、レナも思わず顔がほころぶ。
その様子を微笑ましそうに眺めてから、アランはレナの手を取った。
「お嬢さん、あれ見てください。不思議なものが売っていますよ。行ってみましょう!」
レナの手を引いて走り出すアラン。さっき涙を見たせいだろうか、はしゃぐアランの姿にレナは密かにほっと胸を撫で下ろした。どうやら、もうすっかりいつもの元気を取り戻したようだ。
それから二人はしばらく街を散策し、やがて賑やかな通りから離れた小高い丘にたどり着いた。
「あ! お嬢さん、見てください! 杏の木がありますよ!」
アランは青天に大きく枝を広げて立つ木を指差すと、急かすようにレナの手を引いて駆け寄った。
杏の木は見上げるほどに高く伸びた枝に、桜に良く似た薄紅の花をつけていた。あと数日もすれば満開になるだろうか。冴えた空の青色に、儚げな花が良く映えて美しかった。
見事に咲き誇る花を仰ぎながら、二人はその下に並んで腰を下ろした。
「俺たちの杏の木も、今頃花を咲かせているでしょうか……」
ふと、アランが呟く。
「俺が屋敷を出た頃には、蕾がいくつか膨らんでいたんです。だからきっと、今頃は花が開いているんじゃないかな。――すみません。俺、本当はお嬢さんには会わないつもりで来たんです。だから約束、守れなくて。あの木の花、咲いたら見せるって約束したのに……」
レナは気にしないでというように首を振った。それを見て、アランもほっと息をついて微笑む。
「屋敷を出たら、二人で見に行きましょう。その頃には、きっとたくさん咲いていると思います」
無邪気にそう言ったアランだったが、レナの表情は複雑そうにこわばる。
アランは窺うようにレナを見た。
「お嬢さん……やっぱり、俺と行くのは嫌ですか……?」
レナは慌てて首を振った。アランが嫌なわけでは決してない。ただ、今の状況から逃げてどうなるのかという不安が、どうしてもレナの心を塞いだ。
煮え切らない態度のレナに、アランは尋ねた。
「旦那様のことを心配しているんですか? だったらそんなこと、お嬢さんが気にすることじゃありません。結局旦那様だって、自分の欲望のためにお嬢さんを子爵家に売ったんです。結婚が決まってからだって、お嬢さんが苦しんでいると知りながら、助けようともしてくれなかったじゃないですか」
それでもまだ戸惑いを見せるレナに、アランはもどかしさを覚えた。
「お嬢さんは優しすぎる……。人を憎んだり、恨んだりしたって良いんです。誰かの平安を押し退けてでも、自分の幸せを手に入れたって良いんですよ……? だってそうしなければ、幸せなんて手に入らないんです。この世には、幸せな人と不幸な人がいる。誰かが幸せになれば、その裏で他の誰かが不幸になる。この世界は、そういうところなんです。だからどちらになるかは、自分で選び取らないと――幸せは、自分から手を伸ばさないと掴めない。不幸からだって、自分で手を伸ばさなければ脱け出せない……」
アランの言葉はまるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。
レナは傍らで真摯な瞳を自分に向ける少年を見つめた。
――一体どうしたら良いのだろう。
シルヴェストル家での孤独な生活は、確かに辛いものだった。誰にも必要とされず、夫になるはずの人に忌まわしくさえ思われ、冷たい扱いを受けながら同じ屋根の下で暮らしていくのは正直しんどかった。
何も考えず、アランの優しさに甘えてしまえれば、その方がきっと楽なのかもしれない。
だが、だからといって簡単に手放してしまって良いものだろうか?
目を閉じれば、あの懐かしいウォルバート家の人たちが浮かんでくる。近くにいるときにはわからなかったが、こうして失ってみると、それがどれほど温かく尊いものだったかが理解できた。
辛い日々の中にあっても、懐かしい記憶はいつでもレナを癒してくれた。どんなに不安定に心が波立っていてもしだいに凪いでいった。
隣を見ると、アランの日に焼けた顔がある。
彼はただ一途に自分を心配し、自分のためだけにここまで来てくれた。
いつも優しく、自分を励ましてくれたアラン。彼の明るさと優しさに何度救われたか知れない。
レナはこの純真な少年を、傷つけたくなかった。
(一体どうすれば誰も傷つけずにいられるのだろう……?)
レナが何度目か知れない自問自答を繰り返したときだった。
「――こんな所にいたのか」
ふいに掛けられた地を這うような低い声に、アランとレナはハッとして背後を振り返った。
そこに立っていたのは、馬を引き、わずかに息を切らせたエリックだった。
「なんで、あんたがここに……」
アランがうめくように声を漏らす。エリックは勝ち誇った笑みを浮かべてアランを見下ろした。
「それはこちらのセリフだ。わたしの目を盗み、二人で駆け落ちの算段でもしていたのか? 残念だったな。ここは我がシルヴェストル家の領内。わたしの目を盗んで逃げることなどできはしない」
エリックは恐怖に息を呑んでいるレナに視線を移した。
「……お前も、もう少しましな女だと思っていたのに。思っていた以上に愚かで浅はかだったようだな」
エリックはレナの腕を掴むと、乱暴に立ち上がらせた。
「来い。二度とわたしから逃れられるなどと思わないよう、よく教育してやろう」
引き摺るようにしてレナを連れて行こうとするエリックの腕を、アランが掴む。
「やめろ! お嬢さんは何も悪くない。俺がお嬢さんに一緒に来るよう頼み込んだんだ。お嬢さんは優しいから、俺の願いを断りきれなかっただけだ! この人は何も悪くない!!」
「それが問題だと言っているのだ――何もかも『優しいから』などという理由で許されると思っていることがな。だが……そうだな。お前がわたしの婚約者をそそのかしたのは事実。この愚かな女は、お前の拙劣な勇気に手伝ってもらわねば、一人で屋敷を出ることすら出来なかっただろうからな」
「お前にお嬢さんの何がわかる!? この人がどれほど苦しんでいるか知りもしないで!!」
エリックは後ろを振り返る。そこには、いつの間にかシルヴェストル家の警備の男が二人立っていた。
「――この子供を連れて行け」
男たちが両脇からアランを拘束すると、すかさずレナが自分の腕を掴むエリックに抗議の視線を向ける。
しかしエリックは邪魔な虫を追い払うようにその視線を一蹴した。
「安心しろ。警邏隊に引き渡すようなことはしない。妻の実家の庭師が――しかもこんな子供が間男など、世間に知れればいい笑いものだ。そいつは西の別館の地下にでも放り込んでおけ。早急にウォルバートに迎えの者を寄こすよう伝えろ」
「はっ」
自分よりも遙かに体格の良い男二人に両腕を掴まれ、それでもアランは何とかレナを救おうと身をよじる。伸ばすことの出来ない腕の代わりに、その体ごとレナを捉えるエリックに向かっていこうとする。
「このっ。大人しくしないか!」
必死の抵抗虚しく、アランは両腕を後ろに回され、舗装されていない地べたに乱暴に頬を押し付けられた。口の中に砂利が入り、不快な感触と頬の擦れる痛みにアランは顔を歪めた。
それでも絶対に行かせはしないとばかりに、猛禽類のような鋭い眼光でエリックを睨みつける。
「お嬢さんを離せ! その人に何かしたら俺はあんたを絶対に許さない……!!」
顔中泥にまみれながらも、獣のような敵意をむき出しにするアランに、エリックは冷たい嘲笑を返した。
「『許さない』だと……? 笑わせる。お前ごとき子供が、一体どう『許さない』と言うのだ?」
そうしてエリックは、汚らしいものに触れるように顔をしかめながら、靴のつま先で地べたに転がるアランの顎を持ち上げた。
「金も身分も力もないお前には何もできはしないと、何度言わせればわかるんだ。悔しかったら、そのどれか一つでも手に入れてみるが良い。それが無理なら、せめて大人になってから出直してくるんだな。正当な手段もなく、感情のままに周囲を掻き乱し振り回すなど、まさに幼稚な子供のふるまいだ」
アランは何も言い返すことが出来なかった。悔しそうに唇を噛み、ただ憎い男を睨み上げることしか出来なかった。
その様子を満足そうに見下ろして、エリックはつま先でアランの顎を払うと、そのままレナを連れて行こうと身を翻した。
その背中に、アランは言葉を投げた。
「――確かにあんたは、俺の持っていないものをたくさん手にしている。だけど、たった一つだけ、あんたが持っていないものを俺は持っている」
進みかけたエリックの足が止まり、ゆっくりと這い蹲るアランを振り返る。
「……ほう?」
挑むようなエリックの視線にひるむことなく、アランは不適に笑って見せた。
「お嬢さんを大切に思う心だ。――あんたと違って、俺はお嬢さんを愛している」
「!!」
エリックの隣で、レナが静かに息を呑んだのがわかった。
途端、エリックはレナの制止を振りほどいてアランに駆け寄ると、その腹部を激しく蹴り飛ばした。
アランの細い体は、ボロ雑巾のように無残に地面を転がる。
体を折り激しくむせるアランに、エリックはなおも向かって行く。
容赦なく上げられた足に、レナの小さな体が取り付いて、アランにぶつけられる寸前に止まる。
「離せっ! 人が情けをかけてやれば調子に乗って……! 二度と生意気な口が叩けないようにしてくれる……!!」
しかしエリックは自分の足に縋りつくレナが涙を流しながら自分を睨み上げていることに気がついて我に返った。
無力な子供に一方的な暴力を振るう自分に向けられたレナの瞳には、計り知れない軽蔑が滲んでいる気がして、エリックの体を巡っていた熱が急激に冷めていく。
エリックは静かに足を納めると、そのままレナを連れて自分が乗ってきた馬の方へ戻っていった。
レナはエリックに腕を引かれながらアランを振り返った。
遠くなっていく小さな体は泥だらけで、口元には鮮血が滲み、力なくうなだれて男たちに支えられてやっと立っているような状態だった。
――アランは悔しかった。
そして何より、レナの前で己の非力を晒したことがひどく惨めだった。
自分がもっと大人だったなら。そうしたらもっと簡単に、大切な人を救うことができたはずだ。
運命はなんて理不尽なんだろう。
尊い人が、一番愛している人のものにならないなんて。
金も、力も――何もかも、本当に必要としている人間に、手に入らないようになっているなんて。
その価値もわからず持て余すような者へ与えられるなんて。
敬虔な運命信者だったオリビアの声が頭によみがえる。
『運命は皆に平等よ』
続いて、あの露天商の声が耳に響く。
『あの娘は、初めからあの子爵のものになる運命だったのだ』
アランは叫び出したいほど悔しかった。
(どこが平等だ。全然平等なんかじゃない。運命なんてくそくらえだ。この世で一番お嬢さんを愛しているのは俺なのに。俺だけが、お嬢さんを大切に出来るのに……!)
警備の男たちに連行されながら、アランはレナを思った。
彼女があの男にひどい仕打ちを受けている所を想像するのは、この身が引き裂かれるよりも辛いことだった。
アランは想像に耐えないとばかりに固く目を閉じた。
愛する人を守れない自分の無力と理不尽な運命を、恨まずにはいられなかった。