4-3
自分の無力さに失望しながらも、アランはまだシルヴェストル家の門扉から離れられずに居た。
いくら自分に何の力も無いとは言え、簡単に諦めて引き下がることなど出来なかった。それでは、レナを見捨てるも同然だ。
アランは覚悟を決めると、どこかに忍び込めるような場所はないかと、屋敷を囲む塀の周りを探り始めた。
レナには会わないつもりでここまで来た。彼女はもうすぐ子爵夫人となるのだ。もうとっくに自分の手の届かない所に行ってしまったことは理解している。
ただ、あんなふうにレナが大事にされていないと思い知らされるのは耐えられなかった。
せめて一目でもいい、彼女が元気にしている姿を見られたら。
自分が思っているよりも、幸せそうに笑っていてくれたなら。
そうしたら分不相応だったと自分を恥じてウォルバートの屋敷に帰り、大人しく彼女が幸せになる姿を遠くから見守る覚悟ができるはずだ。
そんなことを考えていると、先ほどエリックによって閉じられたばかりの頑丈な鉄柵が、ガラガラと大きな音をたてて開かれた。
(誰か出てくる……?)
様子を窺おうとしたアランの目に飛び込んできたのは、予想外の人物だった。
「お嬢さん――!?」
遠目でも見間違えるはずがない。アランは眩しすぎる太陽を眺めるように目を眇めた。
レナは声のした方を向いてアランを見つけると、すぐに駆け寄ってきた。外に出て走ったのなど久しぶりで、途中で足がもつれて転びそうになる。
「あ」という形に口を開けたまま、ふわりと倒れこんでくるレナを、迎えに来たアランのたくましい腕がしっかりと支えた。
「お嬢さん……! 大丈夫ですか? お怪我は? 痛いところはありませんか!?」
相変わらずの過保護ぶりが懐かしくて、レナは瞳の端に涙を浮かべながら微笑む。
「お嬢さん……!」
久しぶりに間近で見たレナの笑顔に、アランの胸を切ない痛みが締め付ける。
アランは腕の中にいるレナを、その存在を確かめるように優しく抱きしめた。
「お嬢さん……少し、お痩せになられましたね……」
耳元で囁くアランの温かい声がくすぐったくて、レナは思わず身をよじる。その拍子に、アランはレナの腕にあるものを見つけて息を呑んだ。
「――これは、一体どうされたんですか!?」
レナが、何のことかとアランの視線の先にある自分の腕に目をやった。
見れば、握り拳ほどの大きな青紫色の痣がある。意識してみれば、腕は熱を持ち、ずきずきと鈍い痛みを放っていた。今まで気がつかなかったのが不思議なほどだ。
レナは痛みを堪え、慌てて痣を隠した。おそらく、さっきエリックに振り払われたときにどこかにぶつけたのだろう。それと知れれば、アランに余計な心配をかけてしまう。
しかしアランは隠したレナの腕を掴むと、明るい日の下に痛々しい痣を晒した。
見る間に、アランの顔が怒りで蒼白になっていく。
「これは……あの男がやったんですね……?」
低く掠れた禍々しい声音に、レナは思わずアランを見た。アランの瞳は、静かだが重く冷たい怒りを孕んでいた。
レナは慌てて首を振って否定しようとした。しかしアランはそれを遮る。
「どうしてあんな奴のことを庇うんですか? あの男は、あなたにこんな……こんなひどいことをしたっていうのに……。あんな男、お嬢さんが情けをかけてやる価値なんてこれっぽっちもありません……!」
レナは必死で首を振った。
『これはさっき転んでぶつかっただけ。あの人は関係ない』
手話でそう伝えたが、アランには火に油を注ぐようなものだった。
「なぜ庇うんです? あいつが――あの男が、あなたの婚約者だからですか……?」
言葉じりに滲む不気味な憎しみの影に、レナの体に寒気が走る。自分が知っている、温和で優しいアランとはまるで別人のようだ。
彼がこんなにも怒りに震えているのは、自分が心配をかけているせいだ。エリックとの関係が上手くいっていないと思い、アランは自分の身を案じてこんなにも怒ってくれているのだ。
そう思うと、レナはとても悲しくなった。
自分の愚かな振る舞いのせいで、また大切な人を苦しめている。
レナは何とかアランの誤解を解こうと、手話を手繰った。
しかしアランは『エリックには大切にしてもらっている』というレナの手話を、両手で押さえ込んで封じた。
「あれが……あんな仕打ちが大切にしている男のすることですか? 一日中お嬢さんをたった一人で部屋に閉じ込めて……。あれじゃ、まるで鳥籠に捕らわれた鳥だ。美しく健康な羽を持っているのに、お嬢さんは自由に飛ぶことも許されない……」
レナは驚いた。なぜアランが自分のシルヴェストル家での暮らしぶりを知っているのだろう。
その疑問を確かめるより早く、アランは堪りかねたようにレナを抱きしめた。
ふわりと包み込むように背中に巻かれた腕は、すぐにレナの細い体をきつく締め付け始める。耳元に当てられたアランの胸は熱を帯び、薄いシャツを隔てて聞こえる鼓動は荒々しく、まるでその中に恐ろしい生き物が棲んでいるようだった。
抱きすくめられて体を硬くするレナに、アランは諭すように声をかけた。
「――ここを出ましょう」
思いもかけなかった提案に、レナは驚いてアランの顔を見上げた。
アランはそんなレナの様子に優しい笑顔を向けながら言葉を続けた。
「俺と一緒に、この家を出ましょう。ここには、お嬢さんが大事にする価値のあるものなんて何一つない」
レナは目を丸くしたままぶんぶんと首を振った。この屋敷を出るなんて、とんでもないことだ。
しかしアランの目は、恐ろしいほど静かで真剣だった。真実を見透かすように鋭い視線をレナに向ける。
「それなら、お嬢さんは今幸せですか――? あの男の元で寂しい思いなどしていないと、俺に誓えますか? 俺は、お嬢さんが大切なんです――あの男なんかよりもずっと大事に思っていると言いきれる。だから――お嬢さんが辛い思いをしていると知りながら、ここへ一人置いて帰るなんて、俺には出来ないんです……!」
アランのまっすぐな視線を受けて、レナの心臓がどきんと跳ねる。
この、一途に自分を思い、遠くから駆けつけてくれた少年に、嘘などつけるだろうか。
自分を大切だと、純粋な愛情を向けてくれる相手に、おざなりな偽りを投げて良いのだろうか。
レナの喉がゴクリと鳴った。
冷たい汗が、背中を滑り落ちていく。
躊躇ったのはわずかな時間で、レナは今の自分にできる最大限幸福な笑顔を浮かべると、ゆっくりと手を上げ、手話を紡いだ。
『わたしは大丈夫』
レナの言葉を目の当たりにし、アランは愕然とした。
両手でレナの肩を掴むと、悲しみに瞠目した。
「それなら――、それなら、なんでそんなに辛そうに笑うんです……? 平気じゃないのに、なんで大丈夫なんて言うんですか……っ」
レナの肩に置かれたアランの手に力がこもる。悲しげに伏せられた瞳は、今にも泣き出しそうに震えていた。
「芝居なら、もう少し上手に演じてくれないと……。そんな演技じゃ、俺……騙されてさしあげることも出来ません……」
紡ぎかけた手話を封じて、アランはレナの頭を乱暴に自分の肩口に押し付けた。
「――俺の前では、そんなふうに笑わないでください……。俺は何があっても、あなたを責めたりしませんから。怒りたいなら怒ればいい。泣きたいなら……泣いたって構わないんです」
レナは改めてアランに何か伝えようとしたが、手が動くより先に、自分のものではない温かい涙が額を濡らした。
レナは胸が痛くなった。この心優しい少年を泣かせているのは自分だ。こんなにもひたむきな思いを自分に向けてくれていると思うと、嬉しいような、申し訳ないような、不思議な気持ちになった。
レナはそっとアランの頭に腕を回すと、その柔らかな黒髪を優しく撫でた。
レナに触れられた瞬間、アランの体がびくんと跳ねる。
思いがけない温もりに、アランの顔は耳まで真っ赤に染まる。
アランは高ぶる感情を抑え込もうと、レナの細い体を胸に掻き抱いた。
* * * * *
――固く抱き合う二人の様子を、エリックは遠くから見つめていた。
頭の中が、怒りとも悲しみとも違う感情で、真っ白に染め上げられていく。
こうなるように仕向けたのは自分自身だ。
そのせいか、自分がそれほど驚いていないことが意外だった。
エリックは悟った。
自分は最初から諦めていたのだと。
――彼女から、愛されることを。
* * * * *
もう一人、エリックとは別の場所からアランたちの様子を窺う男がいた。
男は黒いフードの下に見えている口元に嫌らしい笑みを浮かべた。
「……運命は残酷だ。地獄のさなかにあっても、時折、甘い夢を見せるのだから――。だから人は錯覚してしまう――自分は幸せなのだと。この幸せが、永遠に続くのだと……」
男の纏ったローブが、風に煽られて大きくたなびいた。
漆黒の布地はこれからやってくる嵐を暗示するように、激しく荒々しく風に震えていた。