4-1
冬の終わりが近付き、季節はまもなく春を迎えようとしていた。
とはいえ、膨らんだ木々の蕾を揺らす風はまだ冷たい。アランはシャツの前を合わせながら、眼前にそびえる大きな門の前に立った。
シルヴェストル家の屋敷は、想像していたよりもずっと簡素だった。
敷地は広く、堅固な門柱も確かに立派だったが、ウォルバート家にあるような華美な装飾は一切無く、屋敷の中からも活気が感じられなかった。
アランはここに来る途中に通った町で耳にした噂を思い返していた。
「シルヴェストル家は経済的に困窮していて、やむなく成金のウォルバートから娘を嫁にもらうらしい――多額の金銭的支援と引き換えにな」
アランは悔しさに歯噛みした。あの男はレナの家のことを、地位欲しさに娘を売ったと侮辱したが、自分たちの方こそ、金のために罪も無い娘を取引に使ったろくでなしじゃないか。
可哀想なのはお嬢さんだ。あの人は何も悪くないのに。なぜ彼女だけが、一人で辛い思いをしなければならない。周囲の欲望の咎を背負わされなければならないんだ。
アランは服の中にしまっていた鏡を取り出した。そうして、もうすっかり口癖になっている言葉を呟いた。
「――この世で一番あの人を愛しているのは誰だ……?」
いつものように鏡の表面が揺れ、やがて勝ち誇った表情で鏡を覗き込むアランの顔が映し出されると、アランは頰が緩むのを抑えきれなかった。
何もかもエリックより劣っている自分だが、レナへの愛情という点においてだけは、間違いなく勝っているのだ。
(この真実さえあれば良い。たった一つの、だけど俺にとっては何よりも大切な真実だ。俺は、お嬢さんが笑っていてくれたらそれで良い……)
鏡に映る自分の姿に背中を押されるようにして、アランはシルヴェストル家のドアを叩いた。
アランはあまり期待していなかったが、エリックは意外にもアランの呼び出しに応じて屋敷の門の外に現れた。
出迎えたエリックは、憮然とした表情で、まるで悪魔でも見るような忌々しげな視線をアランに向けた。
「こんな所まで一体何をしに来た。……レナに会いにでも来たのか?」
開口一番そう言うと、エリックは野犬を追い払うようにアランに向かって手を振った。
「残念ながら、ここはお前のような卑しい人間が来て良い場所ではない。今すぐ自分の小屋に帰るんだな」
アランはエリックの横柄な態度に腹が立ったが、怒りを飲み込みぐっと堪えた。自分は、決してこの男と喧嘩をしにきたわけではないのだ。
「勘違いするな。俺はお嬢さんに会いに来たわけじゃない。あんたに会いに来たんだ」
予想外の答えに、エリックは目を丸くした。
「わたしに会いに来ただと?」
エリックは呆れた様子で遠路はるばるやって来た少年を見下ろした。どんなに早い馬車に乗ってきたとしても、ウォルバート家からここまで来るのに、3日はかかったはずだ。
「――お前は、彼女に会いたくはないのか?」
アランは噛み付くように叫んだ。
「そんなの、会いたいに決まってる……! だけど……今は会うべきじゃない。お嬢さんはもうじきあんたの妻になるんだ。実家から園丁が会いに来たなんて、俺とおかしな噂でも立てられたら、あの人の立場を悪くする」
エリックは内心へえと感心していた。ただの野卑な子供と思っていたが、存外馬鹿ではないらしい。
だが、その考えが気にくわなかった。
「おかしな噂だと? お前のような子供と、一体どんな噂が立つと言うんだ」
嘲笑を向けるエリックを、アランはぎろりと睨んだ。
「……俺はただの園丁だ。そんなこと、自分が一番よくわかってる」
エリックは小馬鹿にしたようにフンと鼻を鳴らした。
「わかっているならとっとと帰るんだな。何が目的かは知らないが、わたしはお前と話すことなど何も無い」
話は終わりだと言うように背を向けると、エリックは門番に開けたばかりの鉄柵を閉めるよう指示した。
そのまま立ち去ろうとするエリックに、アランは慌てて声をかけた。
「待ってくれ! お願いだ。お嬢さんを大切にすると約束してくれ。あの人に寂しい思いや辛い思いをさせないと、今、ここで約束してくれ……!」
思わず、進みかけていたエリックの歩みが止まる。
自分が今レナに与えている境遇は、この少年の願いとは正反対のものだ。彼女は毎日独りで部屋に篭り、慰めも寄る辺なく、ただじっと耐えている。
そして自分は、そんな彼女の苦しみを知りながら、そこから救ってやることも出来ないでいる――救う手段など、いくらでもあるというのに。
立ち止まったエリックの背中に、アランは畳み掛けるように声を投げた。
「お願いだ! お嬢さんを外に出してやってくれ! あの人は明るい太陽の下で草花を眺めたり、風を感じたりするのが好きなんだ……!」
まるでレナの置かれている状況を知っているかのようなアランの言葉に、エリックは思わず閉じられた鉄柵の向こうを振り返った。
「――ほう。お前はずいぶん我が婚約者のことに詳しいのだな」
アランはその言葉で、鏡が映した内容が真実だということを悟った。
心のどこかで、あれは単なるまやかしかも知れない――いや、鏡が映し出すものなどいっそ偽りであってくれたらと期待していた。
しかし、現実は違ったのだ。
アランはふつふつと湧き上がる怒りを抑え、エリックを睨み据えながら不敵に笑って見せた。
「――ああ。少なくとも、あんたよりは知っている」
アランとエリックは鉄柵を挟んで睨み合った。
張り詰めた緊張感が二人を包む。どろどろとした憎しみの渦が、互いの視線から溢れ出るようだった。
エリックは頭の天辺からつま先まで、値踏みするようにアランを見た。
冴えない黒髪に、着古した貧相なシャツ。成長途上の体躯はまだ子供っぽさが抜けきれず、土臭い雰囲気がどこまでも漂う。
「お前に何ができる――卑しい園丁見習いのお前に。お前など、非力な子供に過ぎない。わたしに食って掛かった所で、所詮お前には何もできはしまい」
アランは何も言い返すことが出来なかった。エリックの言う通りだ。だからこそ、こうして直接エリックに頼みに来たのだ。悔しいが、今あの人を救えるのは、一番近くにいるこの男だと思ったから。だから直接頼みに来たのに――。
アランはエリックに問うた。
「――一つだけ教えてくれ。あんたは、お嬢さんのことを愛しているのか?」
エリックは答えた。
「愛していようといまいと――あの娘は、もうわたしのものだ。決してお前のものになどなりはしない」
エリックは今度こそ背を向けると、もう二度とアランを振り返ることは無かった。
遠退いて行くエリックの後姿を睨みつけながら、アランは固く拳を握り締めた。燃え滾るほどの怒りが体を埋め尽くす。
身悶えするほど悔しかった。エリックが憎かった。そして何より、妬ましかった。
あの男は、自分が喉から手が出るほど欲しているものを、何の苦労もせず手にしている――その価値を知りもしないで。
なぜあの男ばかりが優遇される?
なぜ自分はこんな無力な存在に生まれついたのだろう?
自分が何の力も持たない卑小な存在であることを痛感し、アランは鉄柵に縋るようにして膝をついた。
この柵の向こう側に、愛しい人が居る。孤独にさいなまれ、苦しんでいる人が居る。
助けてやれる距離に居るのに、何もできない自分がひどく情けなかった。




