硝子の匣
この小説には残酷な描写があります。
苦手な方はご注意ください。
表現が下手な部分があるかもしれませんがご容赦ください。
タッタッタッタッ
暗い路地に足音が響きわたる。
やがて路地の終わり、商店街の一角に足音の主が姿を現した。
姿を現したのは高校生と思しき少女。
彼女の名は桐島美園という。
ごく普通の不透明な将来に希望と不安を抱くも、今を友達と楽しく生きれればそれでいい、と考えて日常を生きるそんな少女であった。
しかし、彼女の直面している現実はその日常からかけ離れすぎていた。
一心不乱に走る彼女の右肩から右腕にかけて真っ赤な血液が流れ続け、制服を染めるにとどまらず、肩をおさえる左手の指の間からこぼれ落ち道路にも点々と痕を残す。
背中ほどの長さに伸ばした茶色の巻き毛を振り乱し、目は右へ左へ泳ぎ続け、荒い息の中にかたかたと歯の根が打ち合わされる音が混ざる。
今彼女は恐怖と焦燥に押し潰されそうになっていた。
「逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ」
無意識にか狂ったようにぶつぶつと呟く。
全身の筋肉がギチギチと軋み、傍から見ても体力的に限界を超えているが彼女は一向に止まろうとしない。
いや、止まることが出来ないのだ。
「止まったら……追い付かれたら……殺される……逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ」
美園の耳は確かに後ろから追い来る者の足音とけたたましい笑い声を捉えていた。
事の発端はちょうど夕刻――
茜色の空の下、美園は友達と別れ電車を降り、家路についていた。
夕方なのに蒸し暑い今日この頃、頬をねっとりと伝う汗が不快感と早く家に帰りたいという思いをかき立てる。
「遅い」
点滅する遮断機の警報器を見上げ、美園は頬を膨らませる。
ちょうど帰宅ラッシュ時、駅前の踏み切りが魔の踏み切りに変貌する時間帯である。
しょうがないとは理解しているがイラつくくらい許してほしい。
「ったく。ついてない」
一本、二本と緑やベージュやらの電車が通りすぎる様を苛立ちをおさえながら待つ。
やがて最後の電車が通りすぎ遮断機が上がる。それが上がりきる前に彼女は早足で歩き始める。
ん?
脇目をふらず家路を急ぐ彼女はなんとなく違和感を感じる。
「気のせいか」
立ち止まり何事もないことを確認し、再び歩き出す。
駅前のコンビニの前を通り過ぎ狭い路地に入り住宅地を歩いて行く。
暑さで思考が朦朧とする。
秋になってもうんざりするこの暑さは地球温暖化の影響だろうか。
「早く家に帰ってアイス食べよっと」
冷凍庫の中身を思い出しつつ家路を急ぐ。
家まであと数分というところ一本の路地を抜ける。
「何、あれ? 」
その時その先の光景を目にし、彼女は足を止め呟く。
夕陽を背景にしたがえた住宅地の一角。
そこに人が倒れている。
そしてそれに屈み込みその人の腹に何かを突き立てる者。
逆光でよくわからないが倒れている人間と屈みこんでいる人間は同じくらいの背格好のようだ。
そして夕日に煌いたことでつきたてられている物体が大ぶりの刃物と気づく。
――殺人?
生まれてこのかたそんなものに出くわした経験は当然ない。
突然の事態に彼女は焦るが、落ち着いて何をすべきか判断する。
素早く曲がり角に身を隠し顔だけ出して様子をうかがいつつ、携帯を取り出し、110番を押し、通話ボタンに手をかける。
しかしさらに繰り広げられた衝撃的な光景が彼女の思考を停止させた。
屈みこんだ人間は刃物を肉を捌くように引き、中から何かを取り出す。
考えずともその正体はすぐにわかった。
正直正視できず、彼女は顔を引っ込める。
ぐちゃぐちゃと水気のあるものを咀嚼し、何かをすする音だけが響く。その音を耳にしながら彼女はカタカタと震え始めた。
震える指先から、携帯電話が滑り落ち重力に従い落下する。乾いた響く音と共にプラスチックの筐体は地面に転がった。
その音に殺人者の立てる音が止む。
『次の獲物が来たみたいだネ』
金属のすれ合うような独特の響きの気味の悪い声が路地に響き渡る。
「わぁぁぁ! 」
美園は恐怖のあまり叫び手に持った鞄を放り出し駆け出した。
「一体どういうことよ? 」
ひとしきり走った後再び駅前のコンビニの前に戻り呼吸を整える。
ともかく人殺しだ。この近くに交番あったはずだからとにかく駆け込もう。
そう思い一歩踏み出した瞬間違和感に気づく。
「……人がいない? 」
駅前、そして帰宅ラッシュ時である。言うのもなんだがここは大都市のベッドタウンで決して無人駅があるような田舎ではない。なのに人が一人も歩いていない。
その時いやな予感がし、その場を離れ前に跳んだ。
背中の上から下へ風が走る。
そして背後に重い落下音とともに気配を感じた。
『あ、外れタ』
後ろを振り向く間もなくかかったあの声に、彼女は背筋に氷がつきたてられたように感じた。
殺意というものだろうか。
逃げなければ……
もう声は出す余裕なんてなく、美園は弾かれるように再び走り始めた。
走りつつ美園は状況を整理する。
走り出してすぐに交番に行ってみたもののやはり誰もいなかった。
家まで逃げようとしたが、ちょうどあの路地のあたりでなぜか駅前に戻ってきてしまう。
商店街側も同じところを何度でも回ってしまう。
そして彼女に狙いを定めたあの影。さっきからずっと一定の距離をとって奴は追いかけて来ている。全速力だろうが、早歩き程度だろうがその足音との距離感は変わらない。
立ち止まれば足音も止まる。
遊ばれている。
彼女は不快だと唇をかみしめる。
恐らく追いかけっこに飽きればあっという間に追いつかれ、さっき路上に倒れていた人みたいになる。その時間を少しだけでも遅らせるために走るしかない。
獲物がへたってしまえば追いかけっこなんてすぐ飽きてしまうから。
徹底的に逃げて何としてでも逃げ道を見つける、それが唯一の生き延びる道である。
そうしないと待っている末路はただ一つである。
「にしても……あいつは何者なんだ? 」
彼女は途中、さっきの場所を偶然通りかかり死体を見つけたが無残なものだった。
若い女性会社員だった。
多分帰宅途中だったのだろう。
刃物のようなものでメッタ刺しにされ、腹が割かれ内臓に食われたような跡があった。その遺体を思い浮かべ吐き気を覚える。
そして自分もああなってしまうのかと考えると是が非でも逃げなければと思った。
あんな風に無残に殺されて食われるのはごめんだ。
――人喰い
奴の存在はそうとしか言えない。
そういえば、そんな噂があったことを彼女は思い出した。
数日前の、いつもの友達との馬鹿話の中で聞いた怪談めいた噂。
「はぁ? 人喰い? 何それ」
記憶の中で彼女は授業中、後ろの席の友人、さくらの言葉に耳を傾ける。
「だからそのままの意味だよ」
まっすぐに伸ばした日本人形のような黒髪を肩に垂らし、くりくりとした大きな目をした友人はここだけの話といった感じで声のトーンを落とす。
「夕方頃、裏側に存在する街が現われるんだって。そこに迷い込んだら……人喰いがいるんだって」
真剣な表情で話し始めるさくら。
美園はちょこちょこノートを取りながらその話を一通り聞く。
いまどき噂話にもならないような陳腐な話に美園はぷっと吹き出した。
「人喰いって何よ、人食べるの? 」
「うん」
頷くさくらは真剣そのものだ。
「あんたマジで信じてるのそれ? 」
「だって由貴の友達が食べられたって……」
全く相手にする様子のない美園にさくらは頬を膨らませ美園の額にチョップする。
いささか友人に対しても失礼な態度だがそれは彼女たちの中では日常の一コマだ。
友達の友達がなんとかかんとか、そう言うのはこの手の話のお決まりの文句である。
美園はシャーペンをくるくる回しながらけらけら笑う。
「痛いってば。だーかーらそう言うのを都市伝説って言うの。マジならニュースになるじゃない。なってないっしょ? 」
その言葉にさくらは人差し指を頬に当て首をかしげる。
「そうなのかなぁ? 」
「そうだよ。由貴だって冗談で言ったんじゃない? 」
「そういわれるとそうかも」
作っているような態度だが、さくらはこれが素なのだ。
見ているこっちがハラハラする天然な性格のさくらに美園は同意する。
そんなとき美園の背中がポンポンとたたかれる。振り向くと前の席の子が非常に気まずそうな顔で黒板の方を指差す。
「さて、桐島さん。私語をする余裕があるならこの問題も楽に説明できるでしょうね。お手並み拝見と行きましょうか」
黒板の前に立つは非常に不機嫌そうな先生。
二人の会話はかなり音量が大きくなっていたようである。
二人は互いにあちゃあと呟き、美園は処刑台に上る死刑囚の如く席を立ちため息をつきつつ黒板に向かって歩き出した。
「まさかあの話が本当とはね……」
偶然なのか、事実だったのかは定かではない。
始めは陳腐な噂であったそれは紛れもない現実として彼女の前に立ちはだかる。
「ん? 」
ふと気づけば足音が止んでいることに彼女は気づく。
あの人喰いでも疲れるのか、それとも単に彼女の前の犠牲者の遺骸を味わいに行ったのはわからない。
「あの女の人には悪いけどラッキーだね」
ただ彼女に時間の余裕が生まれたのは確実のようだ。
肩で息をしつつ周囲に警戒しつつもいったん立ち止まることにし、対策を練ろうと考える。
「にしても何だか箱の中に閉じ込められているようだな……」
彼女は己のいる場所を箱の中のようだとイメージする。
壁そのものは存在しないが厳然とした越えられない境界がある空間。
ガラスの箱そういうのが的確か。
本当に絶対に出ていくことができないのだろうか?
いや、絶対に出れるはず。
そう彼女は考える。
閉じられた箱の中だって自分が入ってきた入り口があるはず。
入り口が見つからないのはあの人喰いが閉じたからだろう。
穴の開いたガラスの箱でも栓をしてしまえば密室になる。
人喰いが裏側の町と共に現われるという話からその目的は捕食にあるのだろう。
それ故にえさが入ってきた入り口の栓はそうきつくはまってるはずがないはずだ。
「そこを探して穴を塞ぐ栓を見つければいいんだ」
彼女は再び歩き出す。
確かに彼女は帰り道一瞬違和感を感じ足を止めた。
そこが非常に怪しい。
「急がないとね……」
そして再び駆け出した。
しかし、それは思うようにうまくいかなかった。
街の景色が少しづつ変化しているのである。
なかった建物が出現しあったはずの建物が消える。
それは道も同じで、だんだん複雑になってきている気がする。
箱というのは間違いだったかもしれない。
この街は奴の思うがまま、迷宮というが正しい。
「時間がない、ね」
再び人喰いが今度こそ私を狩らんと追いかけてこようとしているのを感じ寒気が走る。
迷宮だろうと箱だろうと彼女の出した結論は変わらない。とにかく急ぐしかない。
しかし……相手はそれほど待ってくれなかった。
『そろソろ飽きタね』
走る彼女の背後に突然気配が出現し、右肩に衝撃が走った。
そしてそこから広がる熱さと痛み。
「づぁっ! 」
喉の奥から奇妙なうめきが漏れる。
そしてすぐに彼女の肩を貫いたものは引き抜かれる。その拍子に彼女は後ろに向き返る形で尻餅をつく。肩からとめどなく流れる血を左手で押さえつつ、相手の姿をついに見てしまう。彼女の目が大きく見開かれ、瞳孔が収縮する。
「……私? 」
そう、美園を見下ろし、両手に持った凶器で彼女を再び貫かんとするそれは、美園そのものであった。
初めに見たときはもっと背が高く……そうだ、地面に倒れてたOLによく似ていた。
だが、今は美園そのもの。
ただその制服には返り血が付着し、振り上げた両手には血に塗れた刃渡り30センチはあろう大ぶりのナイフ。そして美園を捉える虚ろで狂気をはらんだその両目と、口の周りにこびりついた真っ赤な血。
『さア食事ノ時間だ』
恍惚の笑みすら浮かべソレは手に持った刃物を再び振り下ろす。
そして血が宙を舞った。
『何で逃げルの』
美園の姿に軋むような奇妙な声をしたそれは、傷を増やした右手をかばいつつ走り去る美園をただ見つめる。
『マあ、いいカ』
そして笑い声をあげながら美園の背中を追いかける。
狩りは楽しいほうがいいと思いつつ。
そして時間はやっと現在に戻る。
刺されたパニックで彼女は正常な判断をほとんど失いうわ言のように呟きながら走り続ける。さっきまで何を考えていたなんてすっきり忘れ、ただ死にたくないという思い続けるだけだ。
口の端からは涎がこぼれ落ち、両の瞳からは涙がこぼれ落ちる。
その後ろを彼女の姿をした人喰いが追う。
うわ言とけたたましい笑いが夕暮れの街に響き渡る。
突き出される刃を必死でかわし、彼女は逃げ続ける。
人喰いは彼女に化けているためか、走る速度も同じくらいしか出せないようで、まだ彼女にも勝機はあるようだ。
彼女は走って行くうちにだんだん冷静に考えることができるようになってきて、何をすべきか思い出す。
……必死に逃げるだけじゃだめだ。あいつに対抗し何とか逃げ切らないと。
この街はすべての建物のドアを開けることができず、手頃な武器を探すのは無理そうだ。
「鞄だ」
気づけばあの路地にたどり着いていた。正直迷宮と化してしまった裏側の街ではかなり奇跡に近い。
もうほとんど血の跡くらいしか残っていない女性の横たわっていた場所で軽く黙とうし、投げ捨てていた自分の鞄を右手に無理やり握らせ左手で肩をかばうのをやめ走り出す。
『頑張って逃げのびて……』
駆けていく彼女の背中に若い女性の声がかかる。
彼女は黙って頷き、心の中で礼を言いつつ走り続ける。
ルールは見えた。
この街の穴をふさぐものを見つけ引き抜くこと。
なんと単純なことか。
「絶対に助かる」
そう自分を勇気づけ、美園は走り続ける。
それからしばらく逃げ続け、やがて駅前に出る。
足はもうかなり限界に近い。
そして何とか踏切の前まで行きつく。
穴は見つからない。
もう街の中はくまなく探した。
街の変化は人喰いが再び現われた頃から止まっているので新たな道にあるとは思えない。
だから彼女は絶望する。
彼女はやはり不可能なことだったんだ、と。
振り向けば目の前に迫る人喰い。
彼女は迫りくる死に身をゆだねようと一瞬考えてしまった。
――だが運は尽きていなかった。
「……あった」
線路の一角に目を向け彼女は目を見開く。
そこにあるのは枕木に刺さった小さな釘。
明らかに異質。周りに馴染んでいるようでぽつりと浮いている。
さっきまで視界に入っていなかったそれは、視界に入った瞬間彼女に確信を与える。
そこにナイフの一撃が来る。
しかし、今度は血が舞うことが無かった。
『鞄』
刃は彼女が咄嗟に差し出した鞄に突き刺さっていた。
「簡単にはやられたりしない」
押し負けないよう美園は最後の力を振り絞る。
「何で、こんなことをするの? 」
力のせめぎ合い。彼女は鞄越しに人喰いに問いかける。
『生キるためダよ。ボクはそうイう存在だ』
「そう、こっちも食われるわけにいかなくてね」
会話によって一瞬ナイフを押し込む力が弱まる。その隙を逃さず美園は鞄を思いっきり振り人喰いを殴りつける。相手にダメージを与えるには至らずともひるませるには十分。
美園は大きく飛び退り、釘を握り思い切り引き抜く。
『ざんネん』
その光景を人喰いは見つめそう呟いた。
「助かった」
世界が塗り替わるというのはこういうことだろうか、釘の抜かれた点から何かが元に戻っていく。その様子をしっかりと感じながら彼女は安堵する。
しかし最後にあのギスギスした声が耳をつく。
『君ノ勝ちだネ。お見事……ダけどボクは獲物をただデ逃がすなんテまっぴらなンだ』
その言葉に彼女は表情を強張らせる。
振り向くと美園の姿をどんどん崩していく人喰い。
「どういう……」
その問いはすべて言葉にされることはなかった。
『さて君のいるところは安全かな』
一瞬だけ明瞭な響きをもった人喰いの言葉。
それの意味を理解する前に何かが大きく軋む音が重なる。
電車のブレーキ音と気づく前に美園の身体に体験したことのない衝撃が襲う。
『まあ、たまにはこういう結末も楽しいだろう』
そう言って人喰いはけたたましく笑い始める。
しまった。
そう思ったが遅かった。
始めからこういうわけだったのだ。
そして全身が引きちぎられる感覚とともに彼女の意識は沈んだ。
奴の哄笑と共に二度と這いあがれぬ死の淵へと――――
ホラー作品は難しいです……ファンタジーばかり書いてるのでどうにもファンタジーっぽくなってしまいます。
人食いの言葉が読みづらいかもしれません……片仮名平仮名その場のノリで混ぜているので。
ひょっとしたらもう一話か二話美園の周りの違う人を主人公にした話を書くかもしれません。
感想いただけるとありがたいです。