9、窓伝いに愛を
「それより、この部屋はどうだ?」
先輩が囁いた。 あたしもそれを聞いて欲しかった。
「すごくステキです。
星が見えるんで感激して、それでベッドでながめてて眠っちゃったんですよ」
「ベッドサイドに本棚があるだろう。
置いてある本が、またいいぞ。
ひとりで読んでみろ、絶対泣くから」
「先輩、泣きました?」
「大泣き」
「ほんとに?」
接近した状態で話し込んでいると、コホン、と咳払いが、先輩の背後で響いた。
「浸りきってるトコ、悪いんだけど。
このまま二人の世界になるんなら、あたしら部屋に帰っちゃうわよ」
「え?」
先輩の体の陰で見えなかった。
後ろの廊下で、ずっと待っていた人影がふたつ。
寮母のオバチャンと、女子学生がひとりだ。
「ああ、ごめん。 キンギョちゃん、どうするかな。
家に電話をかけるなら、寮母さんと友達役の女の子が協力してくれるが」
「え。 いいんですか?」
あわてて、後ろのふたりに会釈を送ると、寮母さんは
「慣れてるからいいよ」と笑った。
ところがもうひとりの女子大生は、ちょっと意地悪な表情を浮かべて、あたしを無視した。
わざわざあたしたちの隙間に割り込むように回りこんで、先輩に向かって言う。
「なによ、卓くん。
いったいどこのお姫様をさらってきたのかと思ったら、フツーの子じゃない。
心配してソンしちゃったわ」
えーと?
今、瞬間的にものすごく失礼な言い方が混じったような。
この人の態度も、なんとなく挑戦的な感じがするのは、あたしの気のせいか?
あたしは横目で、その女子大生を観察した。
公演で母親役のソロパートを歌った、ソプラノの女性だ。
あたしにだってあるんだぞ。
オンナのカン、ってやつ。
「卓くん」なんてわざとあたしの前で呼んじゃったりして。
このソプラノ嬢、絶対に間壁先輩の同類だ。
つまり、緑川先輩に気がある。
でも、プライドが高くてまだアタックしてない。
なーんとなくまとわり付いてアピールしている。
そして、ライバルは容赦なく蹴落としにかかる。
こういうタイプになつかれやすいんだな、スグルくんは。
それでも結果的に、あたしは彼女に助けられた。
お兄ちゃんに電話をかけて、あたしが怒鳴り散らされた時、すかさずあたしから携帯を取り上げ、
「もしもし、お電話代わりました! 能美と申します。
今日はゴメイワクおかけしてすみません、アヤは悪くないんです。
連れの人が早く帰らなくちゃいけないの知らずに、私が無理矢理引きとめちゃったんです!」
とても滑らかにウソを並べ立てて庇ってくれた。
そのあと、寮母さんが引き継いで、宿泊場所の説明までしてくれた。
帰宅した後は何をされるかわからない。
でも、ともかく今日は丸く収まった。
一晩だけでも、お兄ちゃんのことは忘れよう。
天井部屋へ帰ってから、ベッドサイドの本を物色した。
あまり見たことのないタイトルの、古い文庫本が5~6冊。
先輩が大泣きした本って、どれかな。
一冊ずつ取り上げていくと、中からコトンと封筒が落ちて来た。
しおりみたいに、本に挟んであったのだ。
白くて真新しい封筒だった。
中から出て来たのは、ピアノコンクールのチケットが2枚。
開催日を見ると、来週の日曜だ!
チケットと一緒に、コピー用紙が一枚入っていた。
「出場者一覧」とある。
パンフレットなんかじゃなく、出場する人に配られるプリントのコピーらしい。
その中に、やっぱりあった。
「緑川 卓」の名前。
曲目はショパンになっている。
コピー用紙の端っこに、伝言らしいメモがあった。
「最近は声楽ばかりで練習をしていないのでガタガタかもしれないが、暇があったら見に来て欲しい。
戸隠先生も、キンギョちゃんに会いたがってるよ」
胸が詰まって、どうして良いのか分からなくなった。
もうこんな中途半端な付き合い、してちゃいけないんだろうな。
申し訳なくてため息をついた途端、携帯が鳴った。
「なんだ、まだ泣いてないのか」
緑川先輩は、冗談めかしてからかった。
あたしは笑っていられなかった。
口を開いた途端、急に調子がおかしくなって、
「先輩‥‥。 先輩はあたしのどこがそんなに好きなんですか」
突拍子もないことを質問してしまった。
先輩は、ちょっと考えるように間を置いてから、おもむろに言った。
「そんな重たいことを、電話なんかじゃ言えないな。
これからそっちに行っていいか?」
「はぁ?」
時計を見ると、夜の9時半だ。
「確か9時に、各建物の出入り口は施錠されてしまうって言ってませんでした?」
それを聞くと、先輩は快活に笑った。
「その管理棟が、なんのためにそこにあるか知ってるか?」
「寮母さんが住むためでしょう」
「そんなの女子寮に一室作って、一緒に住めばいい話だろう。
そうじゃないんだ、その建物はね。
男子寮のヤツらが、女子寮に夜這いをかけられないようにそこに建ってるんだ」
「うそ!」
「本当の話だ。
寮生同士で付き合ってるやつも多いだろ。
隣り合わせにしとくと、ベランダ伝いに行き来してしまうんだよ。
だから、屋根の低い管理棟を間に挟んであるんだ。
わざとちょっと前にずらしてあるのもそのせいだ」
「建物同士の距離を離せば済む話なんじゃないですか?」
「そうすると、管理人の目が届きにくくなる。
今でさえ、1階角部屋をもらうと大変なんだ。
『交通大臣』なんて呼ばれて、逃亡の手助けをさせられるんだぜ。
とにかく、男子寮から女子寮への行き来はかなり監視されてる。
でも、そこは管理棟だから、窓伝いに移動できるよ。
幸い、僕の部屋は2階の角だし」
「2階からここの屋根に飛び降りるんですか?
そんなことしたら、帰りが困るじゃないですか」
「何か垂らしておくから平気だ。
そんなことより、もっと大事なことを考えてくれ。
僕がそこまでたどり着いたら、きみは部屋に入れてくれるのか?」
「ええ?」
待って! それはつまり、あれですか。
夜這いの申し込み、ですか‥‥!
「ええっ?てことはないだろう。
さっきからそのために話し合ってるんじゃないか」
先輩はあきれたように言い放った。
そんな恐ろしいことを、事も無げに言われては困ります!