8、音楽馬鹿のサナトリウム
「ばあっかねえ!」
率直に不安を口にすると、寮母さんに背中をバン!と叩かれた。
「あの緑川くんが、腹芸にしろ裏ワザにしろ、そういう変化球使うと思う?
都合が悪いなら、初めから誘わないよ、あの子は」
「でも、現に予定が入ったって」
「ああ。 それ、多分いい話だわ」
「いい話?」
彼女はさっさと部屋に入り、半ば強引にあたしの荷物をソファに置かせた。
「公演の直後に人と会うことになるってのは、大概がいい話よお。
プロの人たちがいっぱい来てたでしょう?」
「え。 スカウトですか?」
彼女は、うなずきながら首を横に振るという、器用なジェスチャーをやって見せた。
「スカウトか、コンクールにエントリーしろ、か。
他にも留学のお誘いとか、雑誌の取材もありかな。
なんにしても、実力が注目されたってことじゃない。
大学祭のステージを見に来るプロの人たちは、忙しいのに何度もここに足を運べやしないからね。
この場で声をかけるコには掛けちゃって帰るのよ。
‥‥はい、手ぇ出して」
彼女はポケットから、部屋番号の付いてない鍵を出して、あたしの掌に落としてくれた。
山に沈む夕日は、ステージのないショウのようだった。
天井窓を仰いで、民話の影絵に出て来るような透明な空に見入った。
カラスが群れて、ねぐらに帰る。
空を染める夕日の、サーモンピンク。
灰色、黒、銀色にひらめく、光に照らされた雲。
「‥‥きれい‥‥」
一番星が出るまで、身動きも出来なかった。
夕食は寮の食事だった。
時間になると、専門のパートのオバチャンが大量に管理棟に雪崩れ込んで来た。
そして、切るやら煮るやら揚げるやら、巨人用バケツみたいなものに料理を作って、食器に分けて出て行った。
あたしは寮母さんを手伝って、寮生に食器を渡したり、お茶の補充をしたりした。
その後で管理棟に戻り、寮母さんと二人で食事した。
料理は冷めてしまっていたけど、会話の暖かさで気にならなかった。
寮母さんは自分のことを、「ワケありチョンガー」と言っていた。
どう「ワケあり」なのかは、笑っただけで答えてくれなかった。
音楽が好きで好きで、毎日ピアノの音が聞けると思って、音大の寮母になったそうだ。
「緑川くんが入学して、この寮に来た初日にね。
彼の部屋、男子棟の1階の部屋だったんだけどね。
2階の水道が漏れちゃって、彼のベッドが水浸しになったんで、あの天井部屋に泊めたのよ。
星が見えるベッドが気に入って、大喜びしてくれたんだよ。
で、お礼だって言って、そこに座ってピアノ弾いたの」
キッチン横の短い廊下に、古いアップライトピアノが置いてあった。
楽しげにその鍵盤を叩く、先輩の姿が見えるみたいだった。
「結構な心臓よね。
ここはピアノ科の学生も出入りしてるから、声楽の連中はピアノに触ろうとはしないわよ。
ヘタクソですからとか言って、みんな遠慮するの。
緑川くんは全然気にしなかった」
いかにも先輩らしいと思って、あたしは笑った。
「彼、いつもそうですよ。
人からどう見えるかどうかなんて、気にしないんです。
こうしたいと思ったら、すぐしなくちゃ気が済まないの。
やんちゃなんだか、大人なんだか」
「なあんだ。 安心したよ」
寮母さんは立ち上がって、コーヒーメーカーに落としてあった食後のコーヒーを、テーブルまで持って来てくれた。
「ズタボロの片想いです、って言ってたからさ。
もっと、けんもほろろの冷たい子かと思ってたら、満更キライなわけでもないんだね」
「キライじゃないです」
そこは自信があるんだけどな。
「ならなんでカレシにしてやんないの?
あの子はお買い得だと思うよ」
そんなことを言われても、うつむいて笑うしか返事のしようがなかった。
ベッドに体を投げ出すと、満天の星に覗き込まれた。
ああ。 星って、こんなにたくさんあったんだ。
部屋を暗くして、大の字に寝そべって見入った。
夜空をしみじみ見上げるなんて、ホントに何年ぶりだろう。
小さい頃、月を見るのだと泣いて駄々をこねたっけ。
幼稚園で「中秋の名月」という、難しい言葉を習った日。
満月を見たいと言ったら、もう寝る時間と叱られた。
父も母も仕事から帰っておらず、叱ったのはお兄ちゃんだ。
ずい分真夜中と感じたが、状況から見て8時頃だったと思う。
あたしはお風呂場で大泣きして、月見をさせろと暴れた。
お兄ちゃんは根負けして、外に連れてってくれた。
家の外に出ただけでは月が見えなかった。
お兄ちゃんは、ビルのない場所まであたしを負ぶって走ってくれた。
根気強かった、当時のお兄ちゃんは、夜空の何処かに記憶されているだろうか。
そのままうたた寝をしていたようだ。
ドンドン、とドアを叩く音で我に返った。
「おい、開けろ! ここ開けろ、アヤキ!」
お兄ちゃんがドアの外から叫んでる。
「アヤキふざけるなよ、畜生め。
さっさと家に帰らないか!」
体が恐怖で硬直して、ベッドから起きられなくなった。
だって、ここはM大じゃないか。
家にこもってるはずのお兄ちゃんが、なんでここまでやってきたんだろう。
ドンドン、ドンドン、とドアは叩かれ続けている。
痺れた体を、必死で覚醒へと引っ張った。
首を上げて、真っ暗な部屋の中を見回す。
ここには天井裏がない!
隠れるとこが、ない!
ベッドから降りた途端にひっくり返った。
まだ足が夢の中だ。
クローゼットらしい扉の前に、四つんばいで移動した。
中に這いこもうとした時。
ドアを叩く音に、聞き慣れたバリトンの美声がからまった。
「キンギョちゃん! おおい、大丈夫か?
具合が悪いんじゃないか?」
緑川先輩の声だった。
あたしは暗がりの中で、やっとハッキリ目覚めた。
デスクに置かれたバッグの中で、携帯のランプが点滅している。
なんてことだ、完全に寝ぼけてたんだ。
夢と現実がごっちゃになって、目覚めないままベッドから降りて走ったらしい。
つまりこうだ。
まず携帯が着信音を流した。
それで、半分現実に戻ったところへ、先輩がドアをノックした。
携帯にかけても返事がないので、心配で来てくれたのだ。
あたしの頭は、夢の中から持って来たお兄ちゃんのイメージを、そのノック音から発展させた。
夢は一瞬、現実に持ち込まれ、幻となってあたしを走らせた。
もの凄くリアルだと思ったお兄ちゃんの叫び声は、あたしの頭の中で作られたものだった。
「ごめんなさい、眠ってしまって‥‥」
作り笑いでごまかしながら、ドアを開けた。
緑川先輩は、長身を畳むようにしてあたしの顔を覗き込んだ。
「気分は悪くないのか?」
「あはは、ただ寝ちゃってただけです、平気です。
先輩、もう用事終ったんですか?」
「済んだ済んだ。
もうと言っても夜の7時半だ、ずい分遅くなって悪かった。
ひとりで心細かっただろう、食事できたか?」
「はい、寮母さんがいてくださったので、賑やかに頂きました。
先輩の方はどうだったんですか?
良いお話だったんじゃないですか?」
「まあね。 いろいろ言って貰ったよ」
うなずきながら、何故か先輩の表情はあまり明るいとは言えなかった。
先輩はドア際の壁に頭をもたせるようにして、あたしを見下ろした。
ちょっと距離、近すぎ。
なんだか心臓が落ち着かない。