7、愛の漢方薬
「姉貴ィ、おしっこ」
小学生みたいな台詞を、室井ちゃんが吐いた。
音大のふもとまで車を走らせ、JRの駅近くまで来た時だ。
「ガッコで行っとけば良かった。 どっかトイレない!?」
「駅の中にあるかもよ」
冬実さんが、車を路肩に寄せる。
「改札の中なんじゃないの?」
あたしが心配すると、
「無人駅だろ、なんとかする!」
室井ちゃんは、車を降りて走って行った。
二人きりになった車内で、冬実さん、コホンとひとつ咳払いした。
「あのねえ、あーやちゃん」
お。 この無口な人が、自分からしゃべるぞ!
「言いにくい話なんだけど、お願いがあるの」
「何ですか?」
「薬を買いに行って欲しいの。
ここ駐禁だから、私は離れられないわ」
「こんなとこに薬屋さんがあるんですか」
「駅の正面に、雑貨屋さんが見えるじゃない。
あの店にね、伝説の漢方薬があるって話なの。
この土地特産の土牛蒡を使って作られる、民間療法の薬よ。
薬学部でこっそり流れてた噂なんだけど」
「それ、売って貰えるんですか」
「そっと頼むと、分けてもらえるらしいのね。
ただ、それでお金を渡すのは、ホントは法律違反よね。
だからナイショでそーっと行って欲しいわけ」
「ヤバイ薬じゃないんでしょうね」
なんだか心配になって来た。
「麻薬とかではないわ。 でも、ちょっと恥ずかしい薬かな」
「痔の薬とか。あ‥‥媚薬とか!」
「それに近いわ」
「‥‥マジですか?」
冗談で言ったつもりが、なんだか本気でおかしな話になって来るので慌てた。
冬実さんは、バッグから製薬会社のロゴが入った封筒を取り出した。
「ここにお金が入ってるわ。
人に見られないように渡してね。
あ、薬の名前はね、レマトチン、というの。
レマトチン・ウォーマ‥‥覚えにくいからここにメモっておくわね」
封筒を受け取って、車を降りた。
心臓がドキドキして来た。
問題の雑貨屋は、雑然とした店構えの、小さな店舗だった。
売り台に、所狭しと商品を積み上げてある。
食品に、トイレットペーパーから作業着まで。
「はい、はい、いらっしゃい!
何か探し物ですかいね」
奥から小柄な婆ちゃんが出て来て、にこにこと近づいて来た。
見た目だけだと、そのまま妖怪で通りそうな干からび具合の婆ちゃんだ。
その声がまあ、もの凄いボリュームだ。
思わず、「シーッ」と言いたくなる。
「あのう。 薬を、分けて欲しいんですが」
「はあ?」
「薬です、クスリ」
「風邪ひいたんかね!」
ナイショ話をしようと声をひそめたのを、声が出ないと勘違いされた。
「そ、そうじゃなくてですね。
ここに書いてあるクスリを売って欲しいんです。
えと、レ、レマトチン‥‥ウォー‥‥マ」
「なんのことだあ?薬売れえ?」
ひときわ大きな声で聞き返された。
「あんた、ここで薬なんか売れやせんがね!
薬店の許可取っちゃあおらんからね、勝手に売ったら捕まるわあね」
「え? で、でも、ここで売ってくれるって」
言いながら、ハッとした。
封筒の文字を読み返す。
レマトチン・ウォーマ。
れまと・ちん・うおま。
ま・お・う・ん・ち・と・ま・れ‥‥。
「魔王んち、泊まれ!?」
まさかと思いながら、封筒の中身を確認した。
お金なんか入ってなかった。
可愛い包装の試供品が出て来た。
中身は、コンドームが3枚。
やられた!
あたしは外に飛び出した。
車はどこにもいなくなってた。
無人駅のトイレも見たが、室井ちゃんの姿はなかった。
あわてて携帯に電話したけど、応答なし。
2分後にメールが入って来た。
室井ちゃんからだ。
『愛の媚薬じゃ、恐れ入ったか!!』
ああ、友よ。
アンタは完全に誤解してます!
車から放り出されて、すぐ先輩にSOSするのは恥ずかしかった。
取りあえずJRの無人駅で、時刻表を調べて帰ろうとした。
「‥‥これ、ふざけてるのか?」
通勤通学の時間帯を外すと、便は2時間に一本。
その後の連絡を辿ると、家に着くのはやはり深夜だ。
当然、JRを降りてもバスはないからタクシーだ。
なんだかんだで所持金が足りない。
だからって、帰らないわけに行かない。
この前2連泊した時、その後がひどかった。
お兄ちゃんが泥酔して、父の腕にヒビをいれたのが、その晩のことだった。
あたしが帰れば、爆発は免れる。
それだけが、あの不毛極まるゼロえっちの効用だ。
そこまで考えた途端、不意に胸の中がドロンと苦く淀んだ。
また、胃が痛み始めた。
あたしって、可哀想!
ここに来て、初めて自分を哀れに思ったのだ。
それまでは、ただ腹立たしいばかりだった。
親にもお兄ちゃんにも、ありえないヤツら!って、イライラしてばっかりだった。
でも、この時あたしはやっと意識したのだ。
こんな苦労までして、実の兄貴のイケニエになるために家に帰らなきゃならないあたしって。
なんて、なんて、可哀想な子なんだろ!って。
電話をすると、先輩は大急ぎで車を出して、駅まで迎えに来てくれた。
可愛らしい紺色のミラが、ちょっと意外な感じだった。
ピアノの師匠の戸隠先生に譲って貰った車らしい。
ところが。
「キンギョちゃん、せっかくで悪いが、用事が出来てしまった。
これから2時間ばかり、人に会わないといけないんだ。
多分夕食もそこになるから、一緒に食べられない」
冷たいお言葉に、体が凍り付く。
「いや、心配しなくてもいいよ。
きみの食事と宿泊については、寮母のおばちゃんに頼んで来た。
これから、そこに連れて行くから」
そう言われてまた車に乗せられ、山登りでキャンパスに戻る。
5階建ての、アパートみたいな建物が2棟。
真ん中が、管理棟らしい建物でつながっている。
それが、学生寮だった。
1棟が男子寮、2棟が女子寮らしい。
寮母さんは中年の、ころんと太った、よく笑う女性だった。
「ふうん。 へええ。
これが噂の、緑川くんのお姫様かぁ」
甲高い声で言いながら、10代の娘みたいにキャラキャラと笑った。
それでもあまり嫌な感じは受けなかった。
好意で関心を持たれているのが、なんとなく伝わるからだ。
「管理棟の『天井部屋』に泊めたげるわ。
普通は、女子寮の調整室か空き部屋に泊めるモンなんだけど、知り合いがいないんじゃ寂しいわよね」
寮母さんはそう言って、屋根裏部屋みたいな奇妙な部屋に案内してくれた。
天井に窓がある。
ちょっとおとぎ話のシーンに出て来そうな、空の見える部屋だった。
「荷物置いたら、降りといで。
オバチャンとの雑談がいやじゃなかったら、食事はあたしとしよう」
寮母さんに言われて、初めて気付いた。
これは「特別扱い」なんじゃないか?
緑川先輩の口調だと、そういうシステムがある、って感じだったけど。
どう考えてもこれは、寮母さんの個人的な好意に甘えてるんじゃないか。
そもそも、本気でここに泊まれなんて誘ってくれたんだろうか。
社交辞令だったのを、真に受けちゃっただけなんじゃないだろうか。