6、絶対言えない事
声楽科の演目は、「3人魔王」。
シューベルトの「魔王」をベースにした、創作オペラだ。
メインキャラは、父親、息子、魔王の3人。
残りの学生が、全員でコーラスをやっている。
演技はないが、コーラスの中から、母親、天使、医師などがソロ役で入る。
今回の演目は改訂版なので、シューベルトの主題曲以外に、ロックやバラード、演歌風のメロディまで入れた、賑やかな作りになっている。
緑川先輩が登場した瞬間、客席から笑いが起こった。
彼は、父親の後ろにピタリと重なり、全く同じ動きをしながら現れたのだ。
体も気も弱い息子に苛立ち、叱り付ける父親。
魔王は、最初、父親の影として誕生する。 息子が妄想した父親像かも知れない。
黒い服の父親。
白い服の魔王。
歌っているのは、最初は父親だけ。
ストーリーが進むに連れて、魔王は少しずつ、父親と違った動きをし始める。
最初はわずかなズレ。 次第に逆の動きも出て来る。
観客はだんだん、その「違い」だけに集中するようになる。
魔王の第一声は、最初は聞き取れないほど小さかった。
父親のバリトンとダブって、ピアニシモで始まったからだ。
バリトンとハモり、時にはエコーする。
そうして次第にボリュームを上げて行く。
旋律が雪崩れ込むように、魔王のソロパートに移る。
渾身のソロは、背すじに突き刺さった。
聴衆が息を飲んだ。
圧巻だった。
明るくて、よく響く、ちょっとクセのあるテノール。
もともとの声にはなかったエグ味を、妖魔のイメージに合わせてわざと加えてある。
マントヴァ公爵の時に、先輩が身につけた技術だ。
こうしてじっくり聞くと、すごいパワーがある。
ゾクゾクする。
‥‥そして、確かにエロチックなのかも。
「あーや! 大丈夫!?」
体をゆすられて、我に返った。
ちょっと気が遠くなってたみたいだった。
アンコールの拍手が始まっていた。
胸が痛い。
いや、違う。 胸じゃない。
胃炎だ。
座り込んだ洋式トイレ。
見上げた天井のラインが、苦痛で歪んでいた。
胃の中が空になっても、吐き気は治まらなかった。
「あーや、具合どう?
私ら、今からふもとで薬買って来るよ」
室井ちゃんが、外から声をかけてくれた。
「いい。 薬はバッグに入ってるから‥‥」
重い腰を無理矢理上げて、個室からよろめき出た。
「ちょっと開けるよ」
室井ちゃんはあたしのバッグからポーチを出して、中を探った。
「2種類あるけど、どっち?」
横から冬実さんが覗き込もうとしているのを、あたしはあわてて止めた。
「自分でします、ごめん室井ちゃんもう大丈夫だから」
ポーチをひったくって、手洗いの水道で薬を飲んだ。
「キンギョちゃん! 痩せてないか?」
楽屋から出て来た緑川先輩の、第一声はそれだった。
待ち構えていた、友人や関係者の拍手と賞賛を潜り抜けて、一直線にこっちへ歩いて来た。
「先輩! すっごくステキだったです!」
「ちゃんと食べてるのか? 最後に食事したの、いつだ?」
「2年続けて、新境地開拓したんですね」
「このあとお茶にしよう。 もしよかったら、夕方まで残ってみないか?」
「え?」
互いに自分の言いたい事だけまくし立てたことに、ここでやっと気付く。
「ええと」
照れ笑いのあと、改めて切り出した。
「お茶のお誘いありがとうございます。
でもそろそろ帰ること考えないと、夜中までかかっちゃうんですよね」
「明日は日曜だ、構わないだろう」
「運転手の冬実さんが、明日は仕事なんだそうです」
「きみひとり残ればいい。
送る手段は確保してある」
「先輩が送ってくださるんですか?」
驚いて聞き直すと、ムッとした表情が返って来た。
「キンギョちゃんは、まだ僕の性格を把握してないな。
徹底して用意周到な人間なんだ。
こんな田舎に女の子を招待するのに、そういうことを考えずに誘うと思うのか?
確かに車で4時間かかるし、ここのJRは8時前で終ってしまう。
でも小1時間かけて車で高速に出て、長距離バスの深夜便に乗る方法もあるし、特急寝台が止まる駅もある。
そういうのを全部逃してしまった学生のために、学生寮に宿泊できるシステムもある。
近隣の住民が、下宿の空き部屋を開放してくれる事もあるんだ。
寮の管理人の女性が、家への連絡を引き受けてもくれる。
慣れた口調で定型文を読み上げてくれるので評判がいいぞ」
先輩はここで、一旦言葉を切った。
長身を折り曲げて、あたしと目の高さを合わせた。
「羽賀のアホウが、ぼやいてたぞ」
「羽賀先輩?」
「キンギョちゃんに連絡網を回そうとして携帯がつながらなかった時、イエデンにかけたら兄上が出て。
ドスの聞いた声で、どこの誰かとしつこく聞かれたそうだ」
あたしは目を逸らした。
緑川先輩は、あたしとお兄ちゃんのことを知ってる。
以前助けてくれようとしたことがあるのだ。
でも今、こんなに日常的にそんなことになってるとは、夢にも思ってないに違いない。
あたしも、一度も話そうと思ったことはないから。
魔王の目は、あたしのウソもごまかしも見透かしてしまいそうで、こわい。
目を合わせたら、あたしの瞳から、きっとボロボロとウソがこぼれ落ちる。
「あの家では、きみは呼吸ができない」
不意に言われた言葉が、胸の奥をピシリと打った。
あたしは思わず先輩の顔を直視した。
ギョッとするほど大真面目な表情をしていた。
「きみは全然口にしないが、苦しくはないのか?
もし必要なら、僕がここに一日くらい拉致ってやる。
日頃クソ真面目で通ってる分、少々は融通がきくんだ。
それを知って欲しくて、ここに誘ったんだ。
試しに今夜一晩、ここで息抜きしてみないか」
ああ。 体が震え出した。
泣いちゃダメだ。
こんなことで崩れちゃダメだ。
演技のタガを、外しちゃダメだ。
この人を、好きになんかなっちゃ、ダメだ。
すがりつきたいほどの震えを、必死でこらえた。
相手が友達なら、ありがたく甘える。
先生や親戚なら、素直にお礼を言う。
でも、緑川先輩は、あたしに告白してる。
この人の保護を受け入れるということは、交際を受け入れるということだ。
先輩をあたしのナイトに任命して、お兄ちゃんにぶつけるってことだ。
その瞬間から、あたしは恋人を裏切った娘になる。
ダメだ、ダメだ。
そんなことをしたら、何もかもが消えうせてしまう。
この優しい先輩が、あたしを裏切り者と呼んで。
二度と会いたくないと言い放つ。
そんな場面を見るくらいなら、鬼のオモチャでいた方がましだ。
あたしは大きな息をついて、先輩に頭を下げた。
「ありがとうございます。 でも今日は帰ります。
あたしも明日は用事があるんです。
またメール、しますから」
頭を下げて、回れ右をした。
後ろで室井ちゃんが、心配そうに見てる。
優しくしないで。
覗きこまないで。
こじ開けないで。
踏み込まないで。
あたしの中で脈打っている、この薄汚い記憶を、見ないで!