50、恩師は暴走する
「先生、皆さん、いろいろ御心配かけました。
とりあえず、乾杯と言うことで」
緑川先輩がグラスを揚げた。
戸隠先生が、その横っ面をべしんと叩いた。
「なんじゃ、その景気の悪い音頭は!」
「選外でしたし‥‥」
「入賞は入賞じゃ。 枠に収まらんかっただけじゃろう」
「それを選外と言うんですよ」
「理屈っぽい男じゃのう」
食事に入った、会場のすぐ横にあるイタリアンレストランで、さっそく師弟のじゃれ合いが始まった。
グダグダになった乾杯を無視して、あたしもお奥さんもさっさと食事を始める。
そっとしとこうと思った。
緑川先輩が、素直に入賞を喜べない気持ちなのは、選外だったと言うことだけじゃないのだ。
みんなでお父さんを食事に誘ったのに、冷たく拒絶されてしまったからなのだ。
「ファン、怒っちゃだめだよ」
あたしは空になった先輩のグラスに、シャンパンを足してあげた。
「焦らないでね。 ここがスタートなんだから。
ここからだんだん、深まるんでしょ」
先輩が目をしばたたかせて、あたしの顔を見直した。
その時、先輩の携帯が鳴った。
メールではなくて電話のようだった。
彼は店内のお客さんに気を遣い、携帯をつかんでロビーに出て行った。
「キンギョちゃん。
そのう‥‥どう思うかのう、ああいうヤツなんじゃが」
先輩の姿が消えるや、戸隠先生が話しかけて来た。
「才能はあると思うんじゃがの。
いかんせんこの世界、成功の門は狭い。
今回のタイミングを見ても、運にはあまり恵まれてないようにも思えるの。
この先、芽が出るのにしばらくかかりそうなんじゃが、キンギョちゃんはふたりの将来に不安を感じたりはせんかの」
「ふたりの将来。 ふたりの!」
うわ、これはまた新鮮なワード。
「正直、そこまで突き詰めて考えたことがまだないです。
付き合う話が具体的になったのだって、最近ですから」
あたしは頭を掻いた。
実際、今回の結果にほっとしている自分がいる。
彼が国際コンクールに出て入賞したり、今日のコンクールでいい成績を収めることを、心から願っていたあたしもいるんだけど。
「留学」とか「遠距離恋愛」という言葉には、やっぱりちょっと不安を感じる。
それが少し伸びただけでも、あたしたちは運がいいと思うことにした。
先輩が、電話を終えて戻って来た。
腰を降ろすや、戸隠先生に向かって、
「先生の仕業ですね」
いきなり言った。
「何のことじゃ」
「『トリプルA』という団体に、僕の楽譜を勝手に送ったでしょう」
「なんじゃ、その偉そうな名前は」
「『アレンジ・アーティスト・アソシエイション』。 編曲家芸術組合、みたいな意味でしょうかね」
「あー? そうか、そういう読み方をするんじゃの」
戸隠先生は媚びるように笑って、先輩のグラスにお酒を足した。
「やっぱり先生が送ったんですね」
先輩が軽くにらむのを、まあまあと手でなだめる。
「何か言うて来たか」
「何かじゃありませんよ。
入選にしようとしたら、学校を通してないんで違反になるんじゃないかって問い合わせて来たんです。
先生、『3人魔王』は、授業の一環で作った物だから、僕の私物にはならないんですよ」
「でも入賞のレベルじゃったんじゃの。
もう1曲あったじゃろう、あれはどうなった?」
「そっちは編曲じゃなくて作曲なんで、別の審査を受けてるそうです、けどそこじゃないでしょう?
僕が言ってるのは、なんで人の作品を勝手に出したのかってトコなんですがね」
どうやら戸隠先生、先輩の留守に勝手に私物を漁ってコンクールに出してしまったらしい。




