48、だって他人じゃないんだもん
ところが、運命の女神は長い腕を伸べてくれた。
「さて、例年ではこれで閉会となるところですが、今回、ある事情により、審査員特別賞を設けることになりました。
エントリーナンバー8番。
‥‥緑川 卓さん」
会場がざわめいた。
あたしは思わず立ち上がった。
異例の受賞だと言う。
今日の緑川先輩は、演目がマントヴァ公爵だったせいもあって、アクの強い歌い方を心がけていた。
でも、もともと正統派の歌い手なのだ。
まだ若いので、方向性を決めてしまうのは早すぎるという意見が出た。
当コンクールのカラーにはそぐわないと言う審査員もいた。
出来のよい者には賞を与えるべきだという審査員と、そのあたりで評価が割れたらしい。
立ち上がったまま、力いっぱい拍手をした。
でも会場はあっけに取られていた。
司会者が差し出した掌の先に、先輩の姿はなかった。
彼はいつの間にか舞台の下に駆け下りていた。
どよめきが客席をゆるがした。
「父さん、待って、帰らないで!
戸隠先生、父を止めて下さい!」
先輩のバリトンが、マイクもないのにはっきりと場内に響いた。
あたしは手すりに駆け寄った。
一階席では、戸隠先生が立ち上がって通路に走り出したところだった。
見覚えのあるおじさんが、出口に向かって階段を登っているのに、先生が追いすがる。
(さっきのスーツケースおじさん!)
そうか、どこかで見た事があるような気がしたんだ。
音楽関係の仕事で、しょっちゅう海外へ行っていると聞いたことがある。
大荷物を持ったこの人が、先輩のお父さんだった!
よかった。
勘当した息子でも、やっぱり親なんだ。
気になって見に来てくれてるんだ、無関心じゃないんだ。
だったら素直になればいいのに、緑川 父は戸隠先生の手を振り払った。
「緑川さん?‥‥緑川 卓さん」
司会者の当惑した声が、壊れた機械みたいに先輩の名前を繰り返す。
こうなると先輩はステージに戻らないわけに行かない。
緑川 父は構わず出口に向かって突進する。
あたしはとっさに、自分のハンドバッグを取り上げた。
短い悲鳴と共に、それをエイと逆さにして、通路に中身を振りまいた。
お財布やティッシュ、ハンカチやパンフレットがバラバラになって落ちて行く。
1階席に座った人たちが、ビックリしてこっちを見上げる。
「すいませんッ」
すがるような目をして言うと、何人かが立ち上がって、拾い集めてくれた。
うまい具合に、通路が人で埋まっていく。
でかいスーツケースが通れなくなり、立ち止まる緑川 父に戸隠先生が追いついた。
「よしッ」
あたしも急いで1階に降りる階段へ向かった。
空になったハンドバッグを振り回しながら走った。
結局あたしたちは、先輩の受賞の瞬間を見ることは出来なかった。
緑川父を追いかけて、正面ロビーまで出ていたからだ。
戸隠先生と奥さんが、一緒に説得しようと頑張ってくれた。
「本人に会ってからお帰りになって下さい。
お忙しいのにせっかくきてくださったんですし」
奥さんが、逃げられないように出口のドア側に立ちはだかって言う。
「わざわざ来たわけじゃない。
たまたまだ。 ゲスト審査員のロッティーノと友人なんだ!」と、緑川 父。
「なら尚更、あわててお帰りにならなくても」
「夕方の便でプラハへ発つんで忙しいんだ!」
緑川 父、追い詰められて子供みたいになってる。
これ以上切羽詰らせるとかえってまずいな、と思った。




