43、ドーピング宣言
玄関ブザーを鳴らす暇はなかった。
あたしがアパートの階段を上がりきった途端、先輩はドアから飛び出して来た。
コンタクトは見つからなかったらしく、懐かしい黒ぶちの眼鏡をかけてる。
素足のままで廊下まで出て来て、照れたように笑って靴を履きに戻った。
あたしの足音が、わかるんだね。
1ヵ月ずっと、耳を澄ましていてくれたんだね。
あたしは一度も気付かなかったのに。
「声、聞かせて」
いの一番に、あたしは言った。
「キンギョちゃん」
先輩の口から出たのは、久しぶりの呼び方だった。
「ファン」だった時、彼はその呼び方を封印していた。
それこそ一発でバレてしまうからだろう。
「不思議。 ファンの声なのに、スグルさんだ」
あたしはもっとよく確かめるために、先輩の胸に耳をくっつけた。
いつもファンにしたように。
「もう咽喉は大丈夫なの?」
「おかげで元通りだ。
でもしばらく練習を抑えていたから、本調子じゃないな」
「それでも、明日は棄権しないんでしょ?」
「出てみるよ。 後押ししてくれた人に失礼だし」
耳元で、胸板を振動させる声のどこが不調なのか、あたしにはわからない。
わかるのは、そういった状態でステージに立つことの心細さだ。
ピアノコンクールの舞台上で、呆然と立ち往生していた先輩の顔を思い出す。
思い切って言ってみた。
「あたしがドーピングしてあげる」
言った瞬間に、自分の気持ちが以前と違うことがわかった。
ファンには言えても先輩には言えなかったことが、今は口に出せる。
「ドーピング‥‥」
今日は先輩の方が、ちょっと焦った顔になった。
「ピアノコンクールの時みたいにか」
「そうよ。 戸隠先生からも頼まれてるの、ボルテージ上げてやれって」
「‥‥あの時はキンギョちゃんが、指に魔法をかけてくれた」
「だから今回もかけてあげる」
あたしはにっこり笑って、付け加えた。
「でも、今回は指なんか使わないでしょ?
さあ、どこにドーピングするの?」
先輩は反射的に自分の咽喉を指差した。
それからやっと気付いて、その指先を自分の唇まで移動させた。
戸惑ったような笑いが、少年のようで可愛いと思った。
あたしは手を伸ばした。
邪魔っけな眼鏡を奪い取るためだ。
それからたっぷり時間をかけて、あたしたちはドーピングをした。
もちろん唇だけでは終らなかった。
だって知ってる?
歌って、全身を使って歌うものなんだよ。
高校時代、それをあたしに教えてくれたのは、当の緑川先輩だった。




