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4、剣士の転落

 「土管に入ったダックスフントね」

 病院のベッドに横たわる母をからかった。

 脇の下からお尻まである、長いコルセットが壮観だ。


 腰骨が軽く折れているそうだ。

 左腕も、ギプスで膨れ上がっている。

 階段から落ちたのだ。

 尻餅をついたあと、2回転したらしい。


 「笑い事じゃないわよ、痛いんだから」

 母は頬を膨らませた。

 「お兄ちゃんは、今日は来た?」

 花瓶の水を換えながら聞いた。


 「今日はまだよ。 でも毎日、必ず来るの。

  さすがに申し訳ないと思うのかしらね」

 母が複雑な面持ちで言う。

 「ふーん。 ここには来るのね。

  会社には行けないくせにね」

 花瓶を、乱暴にドンと置いた。

 「来なきゃ来ないで、腹立つけどねえ」


 今年の春からだ。

 お兄ちゃんは、本格的に壊れてしまった。

 もともとかなりおかしかったのに、もっと磨きがかかった。


 お兄ちゃん。 金魚 篤樹(かなを あつき)

 剣道5段。 大学時代の成績も上々。

 名前も知られていて、信奉者も多かった。

 そういうことも、よくなかったのかな。

 人から(さげす)まれることに、慣れてなかった。


 

 その年の不況は、特にひどかった。

 少々のスポーツ推薦なんか、おまじないにもならなかった。

 お兄ちゃんは就職にあぶれ、卒業後一年間プータローをやった。

 順風満帆だった彼の人生で、初の座礁だった。


 それでも、一年間は我が家も平和だった。

 国体選手の訓練生に選ばれて、お兄ちゃんは道場住まいをしていたからだ。


 この春やっと就職した。

 希望よりずっと下のランクの会社だ。

 剣道のクラブチームがあるわけでもなかった。


 不平タラタラやる仕事は、なんにもうまく行かなかった。

 スポーツとは違い、根性論が通用しない。

 要領、段取り、時間との戦い。 愛想、口のうまさ、人付き合い。

 使った事のない技を要求され、出来ないと罵倒される。


 おまけにいつもいつもジャッジが入るわけじゃない。

 努力して達成したら、「一本!」と叫んでもらえるとは限らないのだ。

 

 悪いことは重なるものだ。

 ゴールデンウィークの合宿を最後に、国体選手訓練期間が終了してしまった。

 道場に仮設された合宿所は解散になった。


 家に戻って来たお兄ちゃんを見て、ゾッとした。

 見ただけでわかったからだ。

 何かが、一段階進んでしまったこと。


 それまでだって、人の意見を聞く人じゃなかった。

 でも一応、議論や言い争いの段階があったのだ。

 それが今では、相手に喋らせることさえ、拒む。


 何より大きく変わったこと。

 親に手を上げるようになったことだ。

 しかも原因を作るのは、決まってあたし。


 数カ月の間に、ひとつのパターンが出来て行った。

 まず、お兄ちゃんがあたしに文句を言う。

 母が見かねて、あたしを庇う。

 その母を、お兄ちゃんが殴る。

 父が止めに入る。


 若いころから仕事仕事で家のことを構わなかった父を、お兄ちゃんは認めない。

 「あんたには関係ねえッ」

 父を蹴り倒して、一件は落着する。



 顔が腫れる程度で済んでいるうちは、まだよかった。

 先月は、父の腕にひびが入った。

 あたしも脳震盪の洗礼を受けた。

 母の入院で、ついに外部に隠しきれなくなった。


 両親はあたしを庇うことができなくなった。

 母の居ない家は、鬼の棲む地獄だった。

 父はそこに足を踏み入れなくなった。



 「お兄ちゃんは、自分があやを守ると思ってるから。

  小さい時からそうやって来たから、私たちが叱ると心外なのね」

 母はお兄ちゃんを正当化することで、自分のバランスを取ろうとしていた。


 確かに、あたしが言いなりにさえなっていれば、お兄ちゃんは機嫌がよかった。

 優しくさえあった。

 機嫌を取ること自体は、難しくない。

 何もかも言いなりになればいいのだ。

 でも、そうすることは、ひとつの危険を含んでいた。


 それはつまり、近親相姦も許すということだからだ。



 お兄ちゃんが家に戻って来た日、あたしはひとつの誓いを立てていた。

 もうお兄ちゃんに、この体を触らせない。

 なんとしてでも、拒否しなきゃダメだって。


 まずい予感がする日には、友達に頼んで泊めて貰った。

 しょっちゅう外出して接触を避け、電話で機嫌を取る。

 客の関心を引くホステスさんにでもなったみたい。

 そうして時間を稼ぎながら、じりじりと待ったのだ。

 お兄ちゃんが仕事に慣れて、安定してくれる日を。


 でもそんな日は、待てど暮らせど来なかった。

 いつの間にか1年が過ぎ、あたしも崩壊してしまった。

 お兄ちゃんは出勤拒否をするようになった。


 先週から、お兄ちゃんは全く会社に行けなくなった。

 頭痛と吐き気を訴えて、部屋に籠って出て来ない。

 大抵は、あたしが帰宅した時にドアを開けて出てくる。

 魔窟に籠る魔物が、何かの呪文で這い出してくるように。



 母のお見舞いを終えて病院を出るなり、あたしは携帯で我が家へ電話した。

 留守電の案内が聞こえて来た。

 お兄ちゃんが留守なのは、計算通りだ。

 面会時間がもう少しで終る。 きっとこっちへ向かってるんだ。


 「お兄ちゃん? 綾姫です。

  今日は、室井ちゃんちに泊まります。

  ほら明日、M音大の大学祭に行く話はしたよね。

  室井ちゃんのお姉さんが、車で連れてってくれるから甘えることにしたの。

  朝が早いので泊めて貰うね。 明日の夜に帰ります。

  ご飯、昨日のおでんが残ってるよ」


 努めて明るい声で留守録する。

 やってるうちに自分でも滑稽な気がして来た。

 演技、演技、演技。

 あたしの生活は、ウソで目張りをしてなんとか保っている。



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