38、歌声を嗄らしたのは
「お優しい先生ですね」
皮肉を言うと同時に、悔し涙が出て来た。
朝香先生は、あたしの顔をキッと睨んだ。
それからゆっくりと、押し殺した声を吐き出した。
「馬鹿にするな。
誰が君なんか、助けたいものか」
ギョッとして顔を上げると、朝香先生は立ち上がった。
怒りを込めた視線が、あたしの瞳を射抜いた。
「君はオレが差し出した手を振り払った。
自分の人生なんかより、プライドの方を選んだんだ。
そんな人間を救おうとするほど、オレは暇じゃない。
君の母親も君にそっくりだ。
後生大事にちっぽけな自尊心を囲い込んでる、馬鹿女ふたりだ」
ひどい!
精神科のお医者様が、そんなひどいことを言っていいわけ!?
ビックリして声も出せなかった。
朝香先生は、厳しい表情のままもう一度座った。
机の上からひと束の書類を手に取った。
「オレがこの治療を計画したのは、ある相談を受けたからだ。
知り合いの耳鼻咽喉科の医者からだ」
「耳鼻咽喉科」
「そう、突然声が出なくなった患者がいるんだが、検査で何一つ異常がなかったので、ストレスじゃないかって」
声が出ない患者!?
「その人、まさか」
「その通り。 患者の名前は、緑川 卓。
音大の声楽科で、将来を期待されている優秀な学生だ」
先生は書類をめくった。
「彼がオレの元にやってきたのは、11月20日。
普通に話は出来たが、歌える状態じゃないと言う。
オレには声楽の専門知識がないからわからなかったが、歌えないと本人が言うなら確かにストレスを疑うべきだと思って、原因を探るために話をした。
彼によると、声が出なくなったのは、『天地礼賛』という歌を歌った時だったということだ。
その曲に何か、以前印象深いことがあったかと聞いてみた。
そうするとね、『最後に歌ったのは、高1の秋に、モトカノの女性と』と答えたよ」
「ゆきな先輩と‥‥」
その名前を口にするのは、本当に久しぶりだった。
緑川先輩の、年上の幼馴染み。
彼の軽はずみな浮気が原因で自殺した恋人だ。
朝香先生はうなずいた。
「彼はその彼女が死んだことで、精神的にものすごい負債を負ったんだ。
まず、亡くなった彼女とその家族に対して、償いきれない罪の意識を。
それから浮気相手とその家庭に対して。
これもいろいろ噂がたって迷惑かけたし、妊娠騒ぎもあったりして謝罪三昧。
おまけにこの件で、緑川家でも家庭崩壊が起こった。
父親が怒り狂って、息子を家から追い出した。
それが元になって、夫婦仲が悪くなり、両親も3年後に離婚」
あたしは唇を噛んだ。
そういうことを少しも知らなかった。
あたしが知らされていたのは、ホントに表面的なことだけだった。
いや、表面的なことを聞いた時点で、そこまで想像しなかったあたしが間抜けなのか。
「11月はじめに、『天地礼賛』の譜面が届いた、と。
国際コンクールの案内なんだそうだ。
それをもらった時に思ったそうだ。
以前この歌を一緒に歌ったひとは、今は墓に入って2度と歌うことが出来ない。
だのに自分は元気で同じ歌を歌おうとしている、ひどい男だと」
「それで、声が出なくなったんですか」
「いや、その日はまだ出たそうだ。
おかしくなったのは、音大の学園祭の後だと言う話だ。
だから、その頃に何か気になることはあったかと聞いた。
それで君の名が出て来たんだ」
「あたしが原因‥‥」
朝香先生は悲しげにあたしの顔を見た。
「音大祭にやってきた君を見て、痩せて顔色も悪いので驚いた、と言ってる。
もともと君に関しては、いつも笑顔で人の中にいる印象しかなかったらしいんだ。
でも、友達とは上手く行ってるように見えた、と。
君の家については多少の知識があったから、彼にも大体見当はついていたらしい。
でも君は以前、彼にはその事に立ち入るなと申し渡したらしいじゃないか」
確かに言った。
忘れてくださいと、何度も言った。
いつまでもその事を引き合いに出すなら、もう話しかけるなとののしった。
3年も前のことだ。
確かにそれ以来、緑川先輩はお兄ちゃんの事を口にしない。
毎日メールをくれたけど、家の事は一度も話題にならなかった。
そうだ、そういう人だった。
あたしが嫌がることは、絶対にしない人なんだ。
「その後で、えーと、11月13日。
ピアノコンクールの日だったと。
彼、きみのお兄さんとバトったらしいな」
「はい、ふたりとも酔ってたんですけど」
朝香先生はコーヒーをふた口飲んで、書類をパラパラめくった。
「きみたちはそれで精神的に急接近した。
でも君は、彼にうまく心を開くことが出来なかった」
ドキッとした。
そんなことまでバレてる。
「そんなことありません。
そりゃ‥‥キスとかは失敗しましたけど」
「その理由わかる?」
「は?」
「なんでキスごときが、そんなに恥ずかしかったかわかるかい?」
そんなことがわかるわけはない。
でも見当くらいは付けられる。
高校時代から、先輩はあたしにとって、えっちの対象じゃなかった。
それが突然、目の前で唇突き出してるのを見れば、恥ずかしくもなると思う。
そう言うと、先生はくすりと笑った。
「きみ、初恋はいつだ?」
「は、初恋ですか」
「小学校の時?」
「いいえ」
思い起こしてみたが、小中学校で男の子を意識した記憶はない。
となると、あたしの初恋は、れんさんだ。
「高1で初恋か、遅いね。
それもお兄さんのせいだと思わないか?
君は人並みに、うれし恥ずかしの思春期を経験していない。
お兄さんのせいで、男は危険だとかいやらしいとかくだらないとか、無意識に思って遠ざけたんじゃないか」
「思ってた、かもしれません」
「そんな君が、高校に入って恋をした。
恋の相手は、緑川くんと似たタイプ?」
「いいえ、全然違います」
「でも同じ頃、付き合いが深まった」
「それは‥‥偶然そうだったかもしれません」
口ではそう言ったが、内心ハッとした。
れんさんとの恋愛を相談したことで、あたしと緑川先輩の絆は深まった。
そういう意味では、けっして偶然じゃない。
「君はその初恋の相手と、危険でくだらない関係を築くことに抵抗があった。
自分はお兄さんに堕落させられたと思いたくなかった。
だから、同じ時期に進行した緑川くんとの関係が、全く男女の臭いがしなかったことで、精神的なバランスを保ったんだ。
その相手と今になって、危険な関係になることを、脳のどこかが納得できないのさ」
あたしは内心の動揺を隠そうとして、手元のコーヒーをぐっとあおった。
熱さで舌が焼け、あわててカップを下ろす。
あたしの中では、先輩は「恋人になれない男」だった?
認めたくはない。
でも、そう言われたら確かに思い当たることがあるのだ。




