37、尻切れトンボ
「お前ら、人の妹なんで隠すんだよ!」
お兄ちゃんの怒鳴り声。
以前、音大の寮で見た夢と同じだ。
あたしの体が、急に馬鹿みたいに重たくなった。
手足が凍って、大きな氷の塊がぶら下がってるみたいに感じた。
お兄ちゃんの声は、明らかに「酔っ払いの声」だった。
こうして家ではない場所で聞くと、普段以上に尋常でない声に聞こえる。
廊下にいるバイトくんが何か小声で言うのに、おっかぶせるように怒鳴っている。
「止せ、僕が出る。
そこどいて。 ちょっと戸を開けさせてくれ‥‥」
ファンの声が、玄関の方へ動いた。
次の瞬間。
ガシャンとガラスの割れる音が響いた。
近所の犬が、うるさく吠え立て始める。
廊下に足音が入り乱れた。
女の子の短い悲鳴。
あたしは飛び起きた。
とても知らんふりして寝てなんかいられなかった。
同時に玄関の扉から、紅一点の女子大生が駆け戻って来た。
彼女は電話に飛びつき、受話器を上げたところであたしに気付いた。
「あ‥‥」
途端に気まずそうに、受話器を降ろそうとする。
外線のボタンを押していたのが見えた。
「あら、お、起きちゃった‥‥?」
そんなことは聞かなくてもわかるだろうに。
「警察ですね」
あたしはことさらにきちんとした声で言った。
「いいですよ、呼んでください」
「え‥‥でもあの」
相手は焦って、受話器を上げたり下げたりしている。
「いいんです、呼んじゃっても。
何か思い切ったことやんないと、この状態変わっていかないと思うし。
ただ、大学に迷惑かかったらまずいんで、先生の許可は取って下さい」
彼女はまだ迷いのある表情をしていたが、やがて内線のボタンを押した。
電話を取ったのは、姫神教授らしかった。
短い会話の後、あたしに受話器が差し出された。
「こっちで対応するから、かなをくん。
あんたはその部屋を動いちゃいかん。
手に負えなかったときは警察を呼ぶが、今すぐじゃない。
とにかくそっちへ行くから出るな」
言い置いて、こちらの返事も待たずに、3分で助手を連れて駆けつけた。
廊下で言い争う声は、長くは続かなかった。
姫神教授の巨体を前にしたら、さすがのお兄ちゃんも力づくでとは思わなかったのかもしれない。
すぐに辺りが静かになった。
結局大人しく帰ったらしいとわかったのは、教授たちが部屋に入って来てからだった。
姫神教授。
相沢先生。
それから先日の、若い精神科のお医者さん。
明け方近いと言うのに、3人とも研究室に詰めていたらしい。
彼らはぞろぞろ部屋に上がって来て、あたしを囲むようにベッドの周りに座った。
「悪いが、レポレスは今日で終了する」
姫神教授が、わずかに頭を下げながら、口を開いた。
「中途半端で悪いが、からくりがバレちまったみたいだからな。
これ以上続けても、なんら価値が無いんだ。
長い間、ご苦労様でした!!」
「なんですか、それ!
そんなのあり? さっぱりわからないまま、やめるんですか!?」
あたしは動揺して叫んだ。
こんな尻切れトンボで、この先ファンに会えなくなるなんていやだった。
「説明は僕がしよう。
先生がた、いいですよね?」
若い精神科医がそう言うと、あとのふたりはうなずき、頼んだよと肩を叩いた。
窓の色を、朝日が白く塗り替えていた。
事務机がふたつと、パソコンが一台入っただけの小さい部屋だった。
大学の研究室ではない。
大学病院にある、個人用の執務室だ。
わざわざ車で連れて来られたのだ。
母の入院中に、外科の病棟には何度も行った。
でも、精神科のそれもこんな端っこの部屋まで来たことはもちろんない。
セラピストの若い先生は、自分の席らしい場所に腰掛け、隣のデスクから椅子を引き出してあたしを座らせた。
「さてと、とりあえずお疲れ様。
君の協力のおかげで、2つの仕事が同時に終りそうな感じで、感謝してるよ」
にっこり笑って、わざわざ自分で淹れたコーヒーを勧めてくれた。
「2つの仕事?」
「そう。 ひとつは、例の新薬の幻覚作用についてだ」
「幻覚なんかなかったじゃないですか。
あたしの理想が幻覚になったなんて言ってたけど、大嘘でしたね。
ファンはあなた方が用意した、学生バイトさんだったんでしょう?」
先生は答えなかった。
黙ってあたしの顔をじっと見ていた。
「違うんですか?」
「一部は合ってるが、全体は違ってる。
まず第一に、君のファンはバイトでも姫神教授の学生でもない。
彼は、僕のクリニックに来ている患者だ」
「セラピーを受けている患者さん?」
「そう、彼の治療のために協力して貰った。
一石二鳥の研究だったはずだ」
精神科の患者さんと、一ヶ月も寝起きを共にさせたのか。
ちょっとゾッとした。
この先生の神経はどうなってるんだろう。
「第2に、君が幻覚を見たのは事実だ。
君はファンと言う男の実像を、見ずに過ごしてしまったんだ」
「え? それは、どういう‥‥」
「それをこれから見せてあげる」
その時ノックの音がして、若い女性看護士が部屋に入って来た。
「朝香先生、クリーニング届いたの置きっぱなし!
もう、このくらい自分で洗っちゃえばいいのに」
看護士は袋に入ったカッターシャツを医者の手に押し付けた。
「ああ。 忘れてた、ありがとう」
「また完徹やったんですか?
体壊しますよ、ほんと」
「相沢先生の方が先にイクよ、トシだから」
「朝香先生の方がいっぱい泊まり込んでるでしょう」
「売れっ子で困っちゃうわあ」
「もう!」
苦笑して出て行く看護士の白衣を見ながら。
あたしは愕然として、その名前を頭の中で反芻した。
朝香先生。
その名を聞いたのは、2度目だ。
それを言ったのは‥‥母だ。
「あなたが朝香先生?」
あたしは思わず大声を出した。
「母に子育ての責任云々を言ったセラピストさん!?」
「責任追及をしたつもりはないけど、確かに君のお母さんを診たよ。
一回しか受診されてないけどね」
「そういうこと」
やっとわかった。
この先生は、我が家の実態を母から聞いて知ってたんだ。
あたしとお兄ちゃんの関係も知ってた。
「やっぱり先生は、あたしが虐待されてるってわかってたんですね。
それで、あたしの実験に参加されたんですね。
ご親切に助けてくださるつもりだったんですか」
口を突いて出た言葉は、我ながら失礼な台詞だった。
これまで1ヵ月、家に帰らずにいられたことは、ありがたく思う。
それは本当の気持ちだ。
なのに今、自分が保護されていたと思うと、メチャメチャ気に入らなかった。
屈辱感があった。
ボロボロになった羽を見られた、孔雀か何かの気分。




