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35、彼の衝動・あたしの理性

 熱はそれから5日もの間、下がらなかった。

 高くなったり低くなったりしながら、ダラダラと続いた。

 ようやく下がったと思ったら軽い発疹が出た。

 おさまるまでの3日間、薬の投与を更に見合わせることになった。


 「もうほとんど結果は出てるんだ。

  焦って体に悪影響が出たら、薬の開発自体が遅れることになる。

  あんただけの問題じゃ済まなくなるんだ」

 姫神教授の慎重さが憎たらしかった。


 その分、期間を延ばしてくれるかと思ったら、それも断られた。

 アパートの賃貸期間が1ヵ月の契約なのだそうだ。

 12月25日に退去しなきゃいけないと言う。

 愕然とした。

 だって、それを聞いたのが23日だったんだから。


 

 あたしは、フライパンで作れるケーキのレシピを手に入れた。

 アパートにはオーブンなんて見当たらなかったからだ。

 ファンに何かお礼がしたかった。


 一ヶ月間、ファンの夢が見られてすごく楽しかった。

 それが幻かどうかは、正直いまだによく分からない。

 幻だといわれたら、そんなはずあるかと思う。

 現実だよといわれたら、それはおかしいぞと言う。

 

 それでも、彼が自分で幻だと言い張っていることは、ひとつの安心感につながった。

 ここで何があっても、無かったことにしてくれる、という約束でもあったから。

 だから全てをさらけ出しても平気だった。

 あたしは、これまでファンにしたほど、感情をむき出しにして人と接したことが無い。

 家族の前でさえ、極端に自分を抑えてたんだから。



 お風呂で念入りに髪や体を洗って、きれいに洗ったナイトウェアに着替えた。

 せめて気持ちいい印象をファンの中においていこうと思った。


 


 ファンの顔を見た途端、涙が出そうになった。

 この笑顔を見られるのは、今夜と明日だけになってしまったんだ。

 ファンもちょっと悲しげな表情をしていた。

 「やっとよくなったんだな。

  長かった、もうこのまま会えずに終るかと思ったよ」

 起き上がったあたしの頭をユックリ撫でる。

 あたし、胸がいっぱいでうまく話せそうにないので黙っていた。


 「すごいなこれ、作ったのか」

 ケーキを見て、ファンが微笑んだ。

 「そうよ。クリスマスイブは明日だけど、明日はなんだか、なんにも出来そうにない気がしたの」

 「賢明だな。

  僕も明日は食べる気になれないかもしれない」

 ファンはあたしに手を貸して、ベッドに半身を起こさせた。

 ふたりで乾杯をして、ケーキを食べた。


 「あたし、やっぱり今でもファンが幻ってうまく納得できないの」

 食べながら、言葉を捜し探し、言った。

 「もしもあなたが実体のある存在なら、申し訳ないことしたわ。

  一ヶ月もの間、ベッドに縛り付けて指一本触れさせないなんて、普通ふざけるなって言われるよね」

 「いや、これがやってみると天国だったぞ」

 「ほんと? 無理してない?」

 「してないよ」


 あたしはケーキを食べながら、室井ちゃんとした話をファンにも話した。

 「両親にとって、あたしは便利な道具だったの。

  母はあたしが居れば、兄貴が立派なナイトに育ってくれると思ってた。

  父は、兄貴があたしにかかりっきりになってれば、手がかからなくなって母が自分に手をかけてくれると思ってたの。

  そのどちらも叶わなかった今、あたしは何の価値があるのか、あの人たちには分からないのよ」


 ファンは黙って聞いていたが、静かに首を振った。

 「それは、物事のたった一つの側面だろう。

  確かにそういう効果を期待されたかもしれない。

  でも、それだからって、大切な娘だという意識がゼロになるわけじゃないだろ」

 「‥‥だったらいいけど」

 「きみが信じなくてどうするんだ」


 涙がこぼれそうになったので、あわててトイレに立った。

 どうしよう。

 どうしたらいいのかわかんない。

 こんな気持ちで、ファンと一緒のベッドで寝るなんて、今夜は出来そうにない。



 洗面台の前に立って、自分の顔をじっと見た。

 泣きべそをかいた顔は、いつにも増してブサイクでみっともなかった。


 こんな女の子は、どこにでもいる。

 街の中を歩いたら、そこらじゅうで見かける。

 特別美人でもないし、スタイルがいいとは言いがたいし。

 あたしが男だったら、こんな女の子、じゃあねと別れたら5秒で忘れちゃうだろう。


 だからお兄ちゃんにとっても、えっちの対象以外の価値なんてなかったの?

 あたしがもっと頑張って、能力や美貌を手に入れていたら、両親の価値観も変わってたかな。


 きっと、ファンが生身の男の人だったら、ファンもあたしを忘れるはずだ。

 あさってから、すぐに。


 

 鏡を見ながら、思い出した。

 一ヶ月前。

 自宅の洗面台の前で。

 あたしはお兄ちゃんを殺そうと思った。

 そうしないと、自分の生きる道が見えて来なかった。


 今も、あたしは鏡を見ながら、明日からのことを思い悩んでる。

 幸せな1ヵ月が終って、また現実に突き落とされるのが怖くて。


 

 その時。

 一瞬、時が戻ってしまったかと思った。

 あの時、鏡の中に見えた、あたしに近づいて来るお兄ちゃんの姿が、もう一度見えたからだ。

 でもそれはお兄ちゃんじゃなかった。

 ファンだった。


 鏡の中に、あたしの顔とファンの上半身が同居していた。

 あたしの顔は、一目でそれとわかる泣き顔だった。

 ファンはあたしを心配して、見に来てくれたらしかった。

 入口から覗き込み、鏡の中のあたしの顔を見ると、はっとしたように動きを止める。

 

 あたしはあわてて、手の甲で涙をこすり落とした。

 咄嗟に体ごと振り向いた。

 でもまだどんな顔をしていいか、決められないままだった。


 上げられないあたしの顔の前に、ファンの着ているトレーナーの白が広がった。


 黙ったままで。

 ファンはあたしを抱き締めた。

 一ヶ月間すっかり馴染んだ腕の中に、あたしは息をつめて溶け込んだ。

 ベッドの中にいるよりもずっと嬉しいぬくもりだった。

 ここは、カメラから見えない場所なのだ。


 この場所で触れ合ったのは初めてだった。

 誰にも見られないで抱き合える幸せと安心感で、あたしは心臓が破裂しそうになった。

 ファンはこれまで、あたしの前で一度も、フレームの外に出たことがなかった。

 そのことがこれまで、ちょっと不満だったのだ。


 あたしの気持ちは矛盾でいっぱいだ。

 えっちはするなと言いながら、ファンがその気にならないのが気に入らなかった。

 こいつホントに男かよ、なんて思ったこともあった。

 だからってもしも本格的にその気になられたら、見損なったと騒いだに違いない。

 自分でも扱いにくい馬鹿だと思う。

 こんな女の恋人になる男は、ホントにいい迷惑だと思う。

 それが判ってたから、人にそういう部分を見せたことがなかった。

 それで満足だと思い込んでいた。



 ファンの前では、何も隠さなくてよかった。

 カメラのないこの場所では、遠慮することは何もなかった。

 あたしは堂々とファンに抱き付いた。

 それからゆっくりと顔を上げた。

 誘いをかけるように、目をつぶった。


 ファンの唇を誘い込んで、ゆっくりと味わった。

 背中に回した手に、力を込めて抱き寄せた。

 もうブレーキをかけるつもりはなかった。

 時間はもう僅かしかないんだ。


 あたしたちは立ったまま、長い長いキスをした。

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