33、母の子育て
姫神レポレスは3週目に入った。
開始から20日め。
朝早く、電話のベルで起こされた。
教授側からコールがあったのは初めてのことだった。
「かなをさん、緊急連絡だ。
大学病院から電話があった。
きみのお父さん、夕べ遅く頭を打って入院したそうだ」
例の若い精神科の医師の声だった。
相変わらずあたしは実験用アパートで寝起きしていた。
毎晩毎晩、薬を貰って飲んだ。
カメラで監視されながら、ファンと抱き合って眠った。
約束の1ヵ月が来るのが怖くて、なるべく考えないようにしていた。
レポレスが終ったら、こんな幸せな時間は一生持てないかもしれないと思っていた。
突然の電話に驚いて、その時は気付かなかった。
母からの携帯ではなく、何故病院から大学に直接電話がかかるのかということに。
病室に駆けつけると、父はベッドで寝息を立てていた。
精密検査のためと、予後観察のために入院しただけで、大事無いと聞いてホッとした。
でも、枕元に座っている母の顔は、紙よりも白かった。
「お兄ちゃんがしたのね?」
「しッ」
母はあたしの手を取り、病室に引っ張り込んで周囲を確認してからドアを閉めた。
「酔ってよろけて、柱で頭を打ったのよ。
そういうことにしたから、あんたも人にはそう言いなさい」
必死の形相で囁いた母の顔を、愕然と見直した。
そんなウソ、医者が診た時点でバレてるに決まってる。
「大丈夫、脳波に異常はないし、大した治療が要る怪我じゃないから、何も大げさに考えられてはいないの。
それより、あや、いつまで家を空けてるの?
あなたが戻って来ないと、母さんたちだけじゃ、お兄ちゃんの扱いが大変なのよ。
早く戻って来て、協力して頂戴よ」
それは、家族の義務だから。
あたしにはそんな風に聞こえた。
家族には役割分担があるんだと。
お兄ちゃんのご機嫌取りは、お前の仕事だと。
“あたしはお兄ちゃん専用の娼婦じゃないのよ”
咽喉元まで出かかった言葉を、飲み込んだ。
言わなかったのは、母のためじゃない。
あたし自身を憐れんだ、あたしの弱さだった。
「ねえ、母さん。
お兄ちゃんをカウンセリングに連れて行くべきよ。
ちゃんと専門医に相談しようよ」
無駄と知りつつ、言ってみた。
こんな誤魔化しが、いつまでも続けられるわけはないのだ。
なんでそんな簡単なことが、この人に理解できないのかわからない。
いくら家族でも、大きな怪我をして警察に通報されたら、お兄ちゃんは犯罪者になってしまう。
母は途端に表情を変えた。
うんざりした顔、下らない人を見るような顔。
能面のような顔に見えた。
「カウンセリングなら、もう行ったわ。
母さん、あれは嫌いよ。
カウンセリングの先生も嫌い。
朝香先生って、若い男のセラピストさんなんだけどね。
あんな若い人に、育児の何が判るって言うの」
それはお兄ちゃんのカウンセリングじゃなくて、母のだったはずだ。
そう思ったが、とりあえず黙っていた。
言っても無駄だと思ったからだ。
母は、自分とお兄ちゃんの区別がつかないところがある。
この問題に関しては、初めからそうだ。
「どんなこと言われたの?」
「お兄ちゃんがああなったのは、母さんのせいなんだって」
「育児責任者だから?」
「そうじゃないの。
先生はこう聞いたのよ。
『結婚してから、ご主人に失望されましたか』って」
その先生の論旨はこうだった。
母は少女時代から、男性に守られたい願望があった。
だから、守ってくれるタイプの男性に憧れていた。
父も、頼りがいのある男性として恋愛の対象になった。
でも、外でパリッとしてるオトコほど、家の中じゃ何もしないものだ。
父と結婚した途端にそれが判った。
彼は家の中のことにあまりに無関心だった。
仕事仕事で、母は生まれたお兄ちゃんとふたりでほったらかされた。
何も手伝ってはもらえなかった。
そんな夫に、母はなんの魅力も感じなくなり、結婚を後悔した。
「そりゃあね、主婦ですもの。
家事も育児も、母さんの仕事よ。
だけどせめて夫婦って、パートナーであるはずでしょう。
気持ち的に同志であるはずでしょ。
それなのに、父さんはそうじゃなかった。
家の中では、父さんが長男で、お兄ちゃんが次男みたいなものだった。
『おい母さん、パジャマはどこだ? 靴下は?
これ洗っておいてくれ。 明日はゴルフだ。
早く起きなきゃならんから、あつきを夜中に泣かすなよ』って」
「どこでもそうじゃないの?」
「そんなことはないわよ。
たとえ奥さん任せにしてたって、関心くらいあるもんでしょう。
母さんは、父さんにお兄ちゃんやあんたの様子や状態を聞かれたことさえなかったわ」
確かに、あたしにも父に構ってもらった記憶は乏しかった。
「朝香先生の言うにはね。
母さんはそれで、父さんに守ってもらうことをあきらめたんだって。
理想の王子様になってもらうのを断念したんだって。
だからせめて息子には、女の子が頼れる理想の王子様になって欲しかったんだって」
「それのどこが悪いの?」
あたしは聞いた。
自分の理想を子供に託さない親はいないと思う。
「先生に言われたのは、こうよ。
『5歳の幼児に、ご主人の代役は出来ませんよ』って」
その言葉を聞いた時。
雷に打たれたみたいな衝撃が走った。
その理由はわからなかった。
だのに、何故か目の前が暗くなるような気がした。
心がドシンと重くなった。
何かとんでもないことを言われた、と思った。
それが何かはわからない。
とてつもなくショックなことだった。
あたしは、気がつくと病院を出て、外を歩いていた。
どうやって出て来たか、よく覚えてなかった。
どうしてこんなにショックなんだろう。
あたしのコトいわれたわけじゃないのに。
わからない。
母の言葉を、頭の中で繰り返した。
「5歳の幼児に、ご主人の代役は出来ませんよ」
ああ、何が痛かったんだろう。
わからない。
でも、わからなきゃいけない気がする。
ものすごく大事なコトのような気がする!




