26、王子とつばめ
2日めの夜。
あたしはベッドサイドに、紅茶のティーバッグとお湯の入ったポットをセットした。
コンビニで買ったケーキ2個と、カップを2人分置いた。
横になって薬を飲み、電話で連絡するとすぐに眠くなった。
寝ることがこんなに楽しみなんて、生涯で今だけかも知れないね。
カチャカチャと食器の触れ合う音がした。
目を開くと、紅茶の香りが鼻をくすぐった。
「勝手にいただいてるけどよかった?」
幻クンが声をかけて来た。
彼はまた、あの椅子に座っている。
あたしはガバと起き上がって、その椅子を観察した。
やっぱり、この家にあるものとは違ってる。
幻クンは、あたしの分の紅茶を淹れて渡してくれた。
「美味いね、このケーキ。
どこかのコンビニ?」
「セブンで買って来たの。
昨日すごくよく眠れたから、お礼よ」
しめた、と思った。
彼がケーキを食べたからだ。
幻覚かどうか、これでハッキリするじゃないか。
「今日も添い寝する?」
幻クンが聞いて来た。
「うん。 今日は本を読んでくれる?」
「本って、このボロイ本?」
「そうよ、オスカー・ワイルド」
「音読するのか」
「あなたいい声だもの」
「きみの好みだろ? そうなってるはずだ」
その通りだった。
彼の声は、とても暖かくてあたしの好みにピッタリだった。
だのに、れんさんの時みたいに子宮が疼いて辛いなんて事はない。
逆に癒される気がする。 不思議な声だ。
「オスカー・ワイルドを知ってる?」
ベッドに入って来た幻クンに質問した。
「少しはね。 『サロメ』を書いた作家だ、くらいは」
「あたし、『サロメ』は題名しか知らないわ。
『幸福の王子』なら知ってる。あれもワイルドよね?」
「ツバメが死ぬヤツだろ。 僕はあれは嫌いだね」
「どうして?」
「王子がツバメに優しくないからさ。
自分の手が届く者に優しくしない人間は偽善者だ。
僕がもし、こうして抱いてやれるきみに冷たくして、世界の果てで悲しんでいる見知らぬ子供に優しい手紙を送っていたらどうだい?」
あたしは彼の腕の中にもぐりこみながら、幸福の王子のお話を思い出そうとしていた。
街の広場に、立派な金箔と宝石をしつらえた王子の像が立っている。
南に渡る途中のツバメが羽根を休めていると、王子の像は泣きながら訴える。
あそこに不幸な子供がいる。
貧困のため病気が治せない。
私の宝石を外して、あの子の家に届けてくれ、と。
それがきっかけで、ツバメは街の貧しい人に、王子の豪華な装備を外しては届けることを繰り返す。
南へ帰りたいと言うツバメの希望を聞いても、王子はあと1日、あと一日と先延ばしにする。
そしてある日、ツバメは寒さで凍えて死んでしまう。
王子の像も、ひどい格好になったので取り壊される‥‥。
「所得が低い家庭に、たったひとかけの宝石を転がしておいて何になる?
支配階級がそんな意識だから、その国は貧しいままなんだ」
「手厳しいわね」
「銅像は銅像らしく、手の届く小鳥たちを雨風から守るために全力を注いでればいいんだよ。
この王子は傲慢なナルシストさ」
あたしは顔を上げ、相手の横顔を見直した。
整った作りの顔に浮かぶ表情は、滑稽なほど大真面目だった。
彼の言葉は、きっと正しい。
実際に彼がしているのは、その通りのことだ。
あたしをその腕の中で癒してくれている。
自分のいるべき夢の世界から出ることはしない。
今、この時に全力を尽くす。
そのお陰で、あたしは今日一日、ほんとに単純に幸せだった。
ご飯がおいしくて、風が心地よくて。
涙も出なかったし、死にたくもならなかった。
昨日は、自信過剰で鼻につくとこがあったけど。
この人はいい人だ。
例え妄想の産物でも、あたしはそれを認めよう。
「獄中記」を朗読する彼の声を聞くと、直ぐに眠くなった。
2ページも読まないうちに沈没してしまった。
目を開けた途端に、ワッと叫んだ。
サイドテーブルに、ティーカップがそのまま残ってる。
紅茶を淹れた痕跡は、なかった!
ケーキはひとつだけ食べてあった。
あたしが食べた分だ。
うそ。 あいつも食べたよね?
第一、紅茶はあたしも飲んだのに。
あ。 あいつが淹れたんだ。 そこから幻だったの?
じゃあ、あたしは空の紅茶を飲んだわけ?
狐につままれたみたいだった。
いくら見直しても、昨日と同じだ。
あたしがやったことの痕跡しか残っていないのだ。
椅子。 文庫本。 スタンドの位置。
トイレの便座まで見に行ったが、それらしい証拠は見つからなかった。
報告書を前に、あたしはまた頭を抱えた。
大体、あたしもおかしいよね。
朝になると、必死でからくりを探ろうとするの。
なのにどうして、彼がいる時には、正体なんてどうでもよくなっちゃうんだろう?




