23、すっぽんぽん
酔ってお兄ちゃんと乱闘の挙句、我が家の居間で寝込んでしまった先輩は、目が覚めるとすっかりいつものペースに戻っていた。
起きるなり、バツが悪くて部屋に籠ってしまったおにいちゃんと、ほんとに対照的だ。
先輩は朝一番、あたしの両親に膝詰め談判。
お兄ちゃんが更正しきるまで、あたしを家から出せと意見した。
父も母もムッとした顔をしていた。
他人にそこまで言われる筋合いはないと感じたようだ。
「あんたが言うように簡単には行かないもんなんだ」
と父は言った。
「家族で対応したいんです」
と母は言った。
「逃げだとは思いませんか」
先輩は手厳しい。
「取りあえず何か困った時、彼女が身を寄せる場は必要でしょう。
僕の恩師に頼んでおきます。
これから挨拶に行くので、午前中だけお嬢さんをお借りします」
半ば強引な展開だった。
急かされながら身支度をして、一緒に戸隠先生の家に行った。
戸隠家には子供が無く、老夫婦二人の暮らしだった。
高校時代に下宿していた先輩にとっては実家のようなものらしく、ただいまと言って家に入る。
事前に下話がしてあったのだろう。
早朝の訪問にもかかわらず、戸隠先生は慌てた様子を見せなかった。
奥さんもにこやかに迎えてくれた。
夫婦して冗談好きの、気さくな人たちだった。
「家庭の状態があまりよくないとしか、話してないんだ」
と先輩は言った。
「わしがそこまででいいと言ったんじゃ。
話したかったら、ここに逃げてきた時にでも、キンギョちゃん本人が話すじゃろう、とな。
こんなジジババ臭い家でよけりゃ、いつでも泊まりに来たらええ」
戸隠先生が笑った。
染み入るような笑顔を送られて、あたしは言葉が出なかった。
他人がこんなに優しくしてくれるのに。
何故、あたしの親は、この問題を直視しないんだろう。
帰り際、ちょっと部屋へ来いと言われて2階に上がった。
先輩の部屋は、生活できる状態で保存してあった。
小物は3割ほどダンボール入りになっていたけど。
「キンギョちゃん、『ソルベーグ』が欲しいって言っただろう。
CD、逸品があるんだ。 今出すから」
先輩は押入れから、小さめのダンボールを引っ張り出した。
「‥‥やっぱり、おかしいのかな‥‥」
ふとあたしの口を突いて出た言葉。
先輩の手が、止まった。
「あたしの家っておかしいですよね。
いつからだろう。 どうしてだろう。
ね、どこが悪くておかしくなっちゃったんですかねえ」
「キンギョちゃん‥‥」
「誰のせい、なんですかね‥‥」
赤の他人しかいないこの家には、暖かさがある。
肉親のいる家にはそれがない。
そのことに気付いてしまった。
「おい、泣くな」
柄に無く動揺した声で先輩が言って、あたしをゆっくり抱き寄せた。
「君に泣かれると、ほとほと困り果てる。
いつも笑顔でいるから、忘れてしまうんだ。
夕べまですっかり忘れていたんだ、きみが泣く生き物だってことを。
この3年間、何をやっていたんだろう。
馬鹿な野郎ですまなかった‥‥」
そう言って、先輩はきつく抱きしめてくれた。
そこまではよかったんだけど。
なんとなく変なムードになったと思ったら、案の定。
ふっと体が離れたと思った途端、唇を近づけられた。
キスされる!
その瞬間あたしの口から、とんでもない大声が飛び出した。
「いゃあああ!」
両手で突っ張って叫んでしまってから、慌てた。
拒絶しようとしたわけじゃない。
恥ずかしさで、つい声が出てしまったんだ。
なんでよ?
どうしてこんなに恥ずかしいの?
突然スッポンポンにされたような気分!
「おいッ、何してる、スグル!」
階段下まで駆けつけた戸隠先生が大声を出す。
「悪さをするんじゃないぞ!」
「いやー、すみません先生。
ゴキブリの干物出てきましたー」
わざと間延びした声で、先輩がごまかした。
あたしは口を両手で覆った。
この口がこれ以上、とんでもない馬鹿をしでかさないように。
だから、「ごめんなさい」の台詞は、口の中でモゴモゴになった。
耳まで火照って熱くなっている。
先輩は途方に暮れながらも、あたしを抱く手は離さなかった。
「ええと」
音声の切れた人形劇のように、言いかけて3回くらいやめ、
「‥‥そこまで僕はとんでもないことをしたか?」
気の毒なくらい、遠慮深い質問をした。
「確か、この唇に触れるのは2度目のはずだが‥‥」
「いやあッ!」
口を塞いでいるのに、また叫んでしまった。
「く、唇とか‥‥! なんでそんなに恥ずかしいこと言うんですか!」
「唇のどこが恥ずかしい?」
「恥ずかしいです!!」
先輩は首をかしげた。
「すいません! ほんとごめんなさい。
ワケわかんないですよね、あたしだってわかんないんですから。
お、おかしいですよね、夕べはあたしから、それもほとんど不意打ちでしたもんね。
今さらキャアとかって、何言ってんだと思いますよね、あたしだって思いますもん。
本人がいってるのがもう異常ですよね」
止まらなくなってしまったあたしの言い訳に、先輩が吹き出した。
それから、何を思ったかいきなりあたしの耳元で、
「きみの、クチビルに‥‥」
「きゃあああッ」
予定通りあたしが大声を出したので、先輩は満足そうに笑った。
「面白いなあ。
キンギョちゃんはもともと面白い子だったけど、こんな方向に面白くなるとは思わなかった」
「こりゃ、スグル!」
階下からの戸隠先生の怒号には、すまして一言。
「すいませーん、二匹目出ましたー」
「嘘つけこの悪ガキが!」
脱力感に襲われた。
絶対に気を悪くすると思っていたのに。
安心すると同時に、恐怖が先延ばしされたような不安もあった。
ロシアンルーレットで、1回セーフ! みたいな。
バス停まで送ってもらって、別れ際。
「キンギョちゃん。
こういうことを聞くのはルール違反と知ってるが、念のために聞いてもいいか」
先輩に前置きされて、動悸が激しくなった。
お兄ちゃんとのことを、具体的に聞かれると思ったのだ。
ところが、真顔でされた質問はこれだ。
「‥‥広瀬の時も、悲鳴を?」




