21、怪しい新薬
中央大学医学部の廊下は、人が立ってるだけで幽霊に見える。
つまりそれだけボロくて暗いってことだ。
増してや夜間に行くと、「学校の怪談」状態になる。
前回初めて来た時は、怖くて背中を引っ込めて走った。
でも、今日は気にならないぞ。
気持ちが明るいと、周囲も明るく感じるモンなんだ。
昨日、姫神教授から電話を貰ったのだ。
宿泊込みで出来る実験がはいったらしい。
この実験は、「役立たず」の自由研究じゃなくて、ちゃんとスポンサーがついている。
もともと薬学部でやってた新薬の開発実験が、医学部に回されてきたんだとか。
なんにしても、あたしとしては泊り込みが出来るだけで御の字だ。
研究室のデスクには、例の小柄な研究生がひとりで待っていた。
「やあ、来たね。
姫神教授と相沢センセも、今こっちに向かってるってさ」
そう言って、彼はあたしに椅子をすすめてくれた。
「泊まる所決まったってほんとですか?」
「うん。 とある福祉団体がスポンサーになっててね。
すでに商品化が決まった薬品のモニターとして、1ヵ月常用してデータとって欲しいって」
「1ヵ月も」
「心配しなくても、動物実験も臨床実験も充分行って、危険のないことは実証されてる薬だよ」
「なのに、どうしてまだ実験を?」
「ちょっと気になる症例があるんだ。
人によって、幻覚が見えたケースがあるってことなんだ」
「幻覚!」
ギョッとした。
幻覚ならあたし、すでに怪しい症状があるんだけど。
「医者からしたら幻覚は副作用なんだけどね、見てる本人は喜んでるんだ」
「例えば?」
「いもしない子犬を可愛がってるとか。
小さい子供が、お婆ちゃんお婆ちゃんってすがり付いてくるとかね。
大抵は本人が望んでる物が現れるらしい」
「その方が怖くないですか?」
「習慣性はない薬だから大丈夫さ。
‥‥あ、教授お願いします」
「おう」
後ろの入口から入ってきた姫神教授が、ランプの魔神なみの巨体をこちらに運んで来た。
その後ろを歩いて来た相沢教授が、
「あ。待って、僕おしっこ」
子供みたいな事を言って、Uターンして出てってしまった。
「ああ、私は手を洗ってないんだった」
姫神教授まで、机の手前でターンして、洗面台の方に行ってしまう。
研究生くんは苦笑混じりにそれを見送り、
「かなをさん、出来ればこれに目を通しておいてよ」
と、1枚のチラシをあたしにくれた。
フルカラーの、パンフレット並みに上品なデザインのチラシだ。
タイトルを見て、心臓が縮み上がった。
“DV被害者のための相談室”
一瞬、この研究生くんは全部知ってるのかと思った。
あたし、黙ってても被害者の匂いがするんだろうか。
内心の動揺を隠して、チラシと研究生くんを見比べる。
「これ‥‥なんでしょう?」
「僕の専門は虐待被害者のセラピーなんだよ」
「あ。 すみません、お医者様だったんですね。
お若いから大学院生さんだとばっかり」
「よく間違われるよ。 実はそれほど若くもないんだけどな」
相手は気に障った様子もなく微笑んでくれた。
「とにかく困ったことがあったら、いつでも言っておいで」
「そんな風に見えます?」
「そんな風って?」
「あたし、虐待とかされてそうに見えます?」
ビクビクしながら、さりげなく聞いてみた。
「いやいや、かなをさん、ホームレスになっちゃったって言ってただろ。
一家で橋の下に移動したんならともかく、バラバラになったのなら家庭崩壊したって事かなと」
「ああ、そういうこと‥‥」
よく見ると、チラシのタイトルの下に、小さく一行ある。
“虐待、家庭不和など、家族の問題から来るストレスを治療する”
提供された部屋は、中央大学のすぐ裏手にあるアパートの3階。
ダイニングキッチンと洋間がひと部屋だけの単身用アパートだ。
ベランダに出てすぐ正面に、さっきまでいた研究室が見える。
相沢・姫神両教授が、二人がかりで説明と案内をしてくれた。
「いいか、あんたはまず、授業が終ったら、研究室に来る。
そこでさっき説明したように、内線で誰かを呼ぶ。
その人に薬を出してもらう。
それからここに来て、寝る準備をしてから薬を飲む。
飲んだらこの電話で、『飲みました』と連絡な」と、姫神教授。
「それを受けた研究室の誰かがね、スイッチ入れてくれるから。
そしたらこのビデオカメラが撮影を始めるから。
きみはこのベッドに寝て、その後起こることをなるべく日誌に記録して就寝ね」と、相沢教授。
「朝、目が覚めたら日誌をまとめて、終りましたと報告する。
研究室の者が、カメラのスイッチを切る。
そのあとは鍵さえかけといてくれたらいい。
日中は平常の生活をしていいからな」
「と、いうところで、何か質問ある?」
立て板に水の説明を、消化するのに時間がかかった。
「ええと。
電話で終了を知らせるまで、カメラは回りっぱなしなんですか」
「ああ、そうだ。
着替えとか、見られたくないことをやる時はフレームアウトすればいい。
トイレや風呂場の方向には、カメラの死角があるからな」
「あ、でもさ。
あくまで実験だから、カメラから逃げたままってのはナシにしてよね」
「はい」
「それから、もともとこの薬は鎮痛剤だ。
漢方に近い薬だから、痛みがない時に飲んでも心配がない」
「あ、でもね。
飲むとちょっとトロンとした感じになるからね。
あんまり激しく動き回ると危ないよ。
出来ればじっと座るか横になってて欲しいな」
「‥‥はい」
なんだか少し、不安になって来た。
危険がないといっても、つまりは人体実験なのだ。
渡された薬は、タラコみたいに赤い丸薬だった。




