19、かわいいひと
声を聞いた途端、愕然とした。
「卓さん‥‥めっちゃ酔ってますね?」
先輩の声は、全然ロレツが回ってなかった。
緑川先輩は、あのあと戸隠先生、羽賀先輩、室井ちゃんの3人と祝勝会をやったはずだった。
彼がお酒に強いかどうかは、一緒に飲んだことがないから知らないが。
でも、こんなにヘベレケになった状態で、人の家に電話するって、らしくない。
普段の先輩の行動からは考えられない。
あたしの、せいだ。
「もう家に帰ってるんですか?」
「きみはどうだ、家にいる?」
「はい」
「なら出て来い。すぐ前の通りにいる」
「はあッ?」
「早く来ないと、歌うぞ」
いきなり電話は切れた。
歌うぞ‥‥って。
こんな脅し文句、ありなのか。
冗談じゃない。
バルコニーの下でラブソングでもやらかされたら、オオゴトだ。
近所迷惑だし、何よりお兄ちゃんの反応が怖い。
お酒が入ってる時のお兄ちゃんは、シラフの時に輪をかけてキレやすいのだ。
喧嘩になったら、酔っ払ってる先輩の方が、絶対に分が悪い。
あわてて外へ飛び出した。
先輩は、表通りから我が家を眺めていた。
ガードレールに半分腰を落としちゃってる。
白い塗料がスーツを台無しにしてるのに、お構いナシだ。
街灯の下。
昼間のステージでピアノを抱き締めていた先輩とは、別人のようだ。
駆け寄る。
胸が焼け付く。
ふらりと立ち上がる先輩の体を支える。
「もおッ‥‥!!先輩、どうしちゃったんですか?
こんなの全然、らしくないじゃないですか!」
涙が出そうになるのを隠して、大声を出した。
「‥‥きみが別れ話なんか、するからだ」
ふて腐れてみたいに、先輩がつぶやく。
身長差30余cm。
胸元を支えているので、真上と真下を向いての会話だ。
「なんであたしの言う事なんか気にするんですか?
音大には、ステキな女性いっぱいいるでしょうに。
スグルさんなら引く手あまたでしょうに。
わざわざあたしみたいな‥‥!」
そこで支えきれなくなって悲鳴を上げた。
ほとんど相撲を取ってる様な状態だ。
「お願いだから、しっかりしてください!」
叫んだ途端、抱きすくめられた。
大きな腕の中は、信じられないくらい暖かかった。
耳元で何か囁いてくれたけど、台詞が意味不明。
でもあたしの子宮は、この声に反応した。
酔っ払いの声って大嫌いだったはずなのに、心地よいと思った。
心臓がちょっぴりヒートアップしてる。
「男の人って可愛いなあ」
室井ちゃんの声が、頭の中で響いた。
その意味が、やっとわかった。
人望があって才能があって、普段は颯爽としてて。
強くて正しくて、誰もが認めるリーダータイプで。
それがあたしなんかの別れ話で、こんなになって。
こんなにボロボロに悩んじゃって。
可愛い。
なんて可愛いの。
死ぬのはまだ早いと思った。
この人と別れるのも、勿体ない。
なんとかしてもうちょっと、頑張れないかな。
嫌われる日が来るなら、その日まで一緒にいちゃ、ダメなのかな。
その時だ。
抱き締められた腕越し(普通は肩越しだけど、身長が肩まで届かない)に、大変なものが見えた。
玄関ドアから出てくる人影。
鬼だ。
竹刀をぶら下げて、お兄ちゃんが歩いて来る。
ああ、バレた。
「逃げて! 先輩早く逃げて!」
「非常識な酔っ払いめ。
アヤキに不埒な真似をした報いをくれてやる」
竹刀を大上段に振りかぶったお兄ちゃんが言う。
酔っ払いも不埒も、お前が言うなと言いたい!
緑川先輩の方は、地面に座り込んでいた。
あたしが突き放した勢いで倒れてしまったのだ。
この姿勢で上から打たれたら、怪我をする!
「やめてよお兄ちゃん!
竹刀はダメよ、危ないじゃない!」
お兄ちゃんの腕に取り付いて止めようとした。
小さな舌打ちと同時に、降り飛ばされた。
門柱の前で転倒したあたしを見て、先輩がキレた。
「何をする、きさま!!」
跳ね起きて、お兄ちゃんにつかみ掛かる。
「彼女に謝れ。
大事にしないなら、守るフリなんかするな!!」
「だめ!」
パン、パアンと大きな音が立て続けに響いた。
顔面を狙った竹刀が、先輩の腕に当たって弾かれた音だ。
先輩は、腕で顔を庇いながら更に前進する。
やめて!
その腕は、ピアノを弾く腕よ!
さっきあたしが手当てしたばかりなのに。
あたしたちの合唱を指揮して、あたしの元気を引っ張り出してくれた腕よ!
あたしの誕生日に、自作の曲を弾いてくれた腕よ。
世界中探したって、こんなステキなものは見つからないんだから!!
何度打たれても、先輩は前進をやめなかった。
間合いを取るため、お兄ちゃんのほうはダラダラと後退する。
その体が一瞬で路面に昏倒した。
胸元に踏み込んだ先輩が、ついにお兄ちゃんの頬を殴りつけたのだった。
一発KO。
同時に先輩も、バランスを崩して道路と仲良くなる。
駆け寄って抱き起こそうとしたが、重くて持ち上がらなかった。
あたしまで尻餅をついてしまった。
「ははははは、キンギョちゃん。
僕はこのために、きみと出会ったんだ!」
あたしの腕の中で、彼は大声で笑っていた。
「見ただろう? 信じただろう?
きみの不幸をぶち壊すために、僕は生まれて来たんだぞ!!」
豪快に笑いながら、彼はついに目を回してしまった。
「ばか‥‥」
あたしの口から、小さな嗚咽が漏れた。
目からは涙が溢れてきた。
子供だか大人だかわからないこの人が、愛しいと思った。