18、レクイエムを聞きながら(2)
そうだ、なんで今まで思いつかなかったんだろう。
殺しちゃえばいいんだ。
ほら、そこに武器があるじゃない。
洗面台に立ててあったカミソリをつかんで、相手の腕に突き立てた。
‥‥つもりだったけど、かわされた。
振り回した手を苦もなくつかまれる。
剣道で鍛えた動体視力。
あたしなんか太刀打ちできない、鋼鉄の二の腕。
カミソリが弾き飛ばされ、窓枠にぶつかった。
「お前はどうでもお仕置きされたいらしいな」
お兄ちゃんはあたしの体を肩に担ぎ上げた。
悲鳴を上げかけて、慌てて飲み込む。
「やめて、離して、降ろしてよ!」
声を出すことが出来ないので、息だけで騒ぐ。
背中を思い切り叩かれても、お兄ちゃんはびくともしない。
その時。
あたしは見てしまった。
「見る気ィおやじ」
ドアのところに、あの不気味なおっさん幽霊が立ってこっちを見ていた。
そして、一瞬遅れて、気付いてしまった。
これは幽霊じゃない。
‥‥父だ。
馬鹿でかい顔が、普通のサイズになった。
父は、ドアの隙間からこっちを見ていた。
ただ、黙って見ていた。
何もせずに、見ていた。
いきなりあたしは理解した。
そして絶望した。 ふたつの事実に。
ひとつは、あたしたちの「ゼロえっち」が、黙認されていたということだ。
つまりあたしは、「金魚家公認のイケニエ」だったのだ!
もうひとつの事実は、あたしの頭がおかしくなってるかもしれない、ということだった。
父が父に見えなかった。
この人が家にいたことさえも、あたしは気付いていなかったのだ。
狂っているのかもしれない、あたし。
お兄ちゃんはあたしをかついで、自分の部屋に入って行った。
「俺を殺すんなら、毒薬でも持って来るんだな。
お前の攻撃なんか、目をつぶっててもかわせるぞ。
逆にこうやって殺すのも造作ない」
ベッドに下ろされた途端、首に手を掛けられた。
あたしは抵抗しなかった。
黙ってお兄ちゃんのでかい体を見上げた。
少しヤケになっていたのだ。
「殺しなさいよ」
あたしは言った。
「殺してよ、死にたいんだから」
「殺すか、馬鹿」
お兄ちゃんは冷たく言い放った。
「殺したって、何も楽しくない」
そう言うと立ち上がって、部屋の鍵を閉めた。
「服、脱げよ。
俺に捧げるためにカレシとありがたく別れたんだもんな」
あたしはまだ相手を睨みつけながら、自暴自棄になって服を床に叩き付けた。
あたしの全身が、猛毒で出来てればいいのに。
触った途端、この男がギャッと叫んで死んでしまえばいいのに。
でも。
ギャッと叫びたくなったのはあたしだった。
ベッドに近づいて来る、お兄ちゃんの手の中。
何か小さな器具が握られていた。
含み笑いが不気味なのは、そのたくらみのせいだ。
ヴィーン‥‥とモーターの音が、部屋に響いた。
(これは、何?)
あたしは今までそんな物を見たことがなかった。
でも、それを使うとどういうことになるのかはすぐにわかった。
「エンドレス」になる!!
今までの行為には、一定の法則があった。
お兄ちゃんのセットアップが始まりで、射精したら終わり。
それであたしは解放されていた。
終わりが見えていたから、とりあえず耐えることが出来たのだ。
でも、この不気味な音を立ててるモノには、終わりの瞬間がない!
「イヤ‥‥」
あたしは首を振った。
「イヤ! イヤ! イヤ!」
ベッドの上で後ずさった。
お兄ちゃんは薄笑いを浮かべて迫って来る。
その表情を見て、気付いた。
この人は、えっちがしたいんじゃないかも知れない。
あたしが泣くのを見たいだけなのかも。
悲鳴が漏れないように、毛布を口に押しこまれた。
感電した!
一瞬そう思ったほど、強い刺激が全身を貫いた。
股間に押し当てられたそれは、爆弾みたいな代物だった。
小さいのにもの凄い勢いで、あたしの格納庫を揺すりたてた。
体中の筋肉ががちがちに固まった。
やめて!
これは快感じゃない。
胸が固まって息が出来ない!
お願い助けて! 呼吸をさせて!
何故かこの時聞こえて来たのは、さっき聞いたショパンのエチュードだった。
緑川先輩の素晴らしい演奏。
何でこんな時に思い出すんだろう。
死んで行くあたしの心に手向ける、葬送行進曲みたいだ。
気がつくと、暖かい布団にくるまれて寝ていた。
蛍光灯の光に見上げた掛け時計は、夜の9時。
机に向かう、お兄ちゃんの背中が目の前にあった。
「お。 起きたかアヤキ。
メシ作っといたぞ。
父さんも母さんも先に食ったから、お前も起きて食え」
少しお酒が入っているらしく、お兄ちゃんは上機嫌だ。
いや、酒のせいじゃないかもしれない。
だって今まで、どんなに飲んでも自分で食事の支度なんかしようとしなかった。
ゲームはしたけど、机には向かってなかった。
昔のお兄ちゃんに戻ったみたいだ。
「お兄ちゃん、なにやってるの?」
「就活するんで、その準備だ」
「今の仕事、辞めるの?」
「俺に合ってない。
もっと自分に合う仕事を探すことにした。
今度はあわてずにもっと本気で探す、本気で続ける。
いつまでも母さんに心配かけてられんからな」
「前向きだね、お兄ちゃん」
「アヤキのおかげだよ。
自信がついた。
なあ、俺けっこう捨てたモンじゃないよな?」
「‥‥う、うん」
否定はしないで置いたけど。
あたしは困惑していた。
お兄ちゃんの自信って、えっちでつくの?
あたしが失神したから、すごく気をよくしてる。
きっと自分のえっちが相当よかったと思い込んでる。
でもほんと言うと、あたしが気を失ったのは快感のためじゃない。
呼吸困難になったからだ。
今も脳に酸素が行き渡ってないらしく、強烈な頭痛がする。
こんな事してるから、あたし変になっちゃったんじゃないのかなあ。
服を着る時が、いちばんみじめだ。
脱がされる時には、怒りがある。
この野郎と怒る対象がある。
コトが終って、その対象がそっぽを向いてる今。
自分ひとりで、服を身につけて後始末をする。
この悲しさを、どう受け止めたらいいんだろう。
死んじゃえばいい、と、不意に思った。
お兄ちゃんがダメなら、あたしが。
あたしが死ねばいいんだ。
その考えは、新発想だった。
これまで一度も思いつかなかったのが、かえって不思議だ。
そうだそうだ、死んじゃおう。
それが一番早く楽になれる。
どうやって死ぬか、これから考えよう。
そんな結論に飛びつこうとした時だった。
「おい。 お前の携帯じゃないか?」
お兄ちゃんに言われて気がついた。
隣のあたしの部屋から流れてくる音楽。
「リゴレット」の、「女心の歌」フルオケバージョン。
緑川先輩だ。