17、レクイエムを聞きながら(1)
何度も何度も練習した言葉。
口の中から、ようやく押し出した。
「これっきりにしちゃ、いけませんか」
出来るだけ普通に、言ってのけた。
断ち切る刃は、鋭利な方が傷口が治りやすいよね。
大通りの車の流れが、一瞬静止したような緊張があたしたちに流れた。
緑川先輩は軽く息を飲み、言葉を探しあぐねて路面に目を落とした。
彼は今日のコンクールで、見事3位に入賞した。
これから祝勝会に出るところだった。
あたしも誘って貰ったけど、これを言うためにやめたのだ。
「これきり、とは、もう会わないとかそういうこと‥‥か」
先輩の声は、いつもの美声じゃなく、乾いて細くなった声だった。
「温度差が、つらいんです。
スグルさんはすごく、あたしを買ってくださいます。
それに見合うものを、あたしは持ってませんし、お返しできません」
「返さなくていい」
「身に余る評価は、人を卑屈にします。
スグルさんだって、今日予定よりずっと高い賞をもらって、申し訳ながってるじゃないですか!
あたし、スグルさんの恋人になって、毎日心の中で、ごめんねごめんねって言いながら暮らすのはいやなんです」
ほんとのことを言うのはあんまり悲しい。
でも、ウソをつくのもイヤだった。
あたしの中のこの卑屈な思いを、少しでも分かってもらえないだろうか?
それとも、それこそが傲慢な考えなんだろうか。
「恋人になれないにしても、会うのをやめる必要があるか?」
「今日の演奏を聴いて思ったんです。
スグルさん、あんなに真剣なのに、失礼な付き合いは出来ないです」
「つまり、‥‥要するに僕は‥‥重いのか」
愕然とした様子で、先輩はあえいだ。
ああ、伝わらない。
そんなんじゃないんだよ。
でもあなたのきらめくような思いが、あたしにはまぶしくてつらすぎるんだよ。
やっぱり無理なんだ、嫌われずに別れることなんて。
あたしはもう少し、荒っぽい言い方に切り替えて続けた。
「スグルさんは、本当のあたしなんか嫌いだと思います。
あたし、そんなきちんとした人間じゃないんです。
あたし、れんさんと別れた後、スグルさんに言えないこと、いっぱいしました」
「‥‥キンギョちゃん?」
「寂しかったんです。
れんさん、地元に残ってるし、いろいろ噂を聞かされるし。
寂しくて死んじゃいそうだったから」
これはほんとのことだ。
れんさんと終った後、何人かこれと思う人とデートしてみたりした。
流されてアブナイことも少しはしてしまった。
そうしているうちに、いろんなことを忘れられるんじゃないかと思ったからだった。
これにはさすがの緑川先輩も、相当ショックを受けたようだった。
「それは、その‥‥遊びで、誰かと‥‥ということか」
「その場限りで、ということです。
相手や回数も、言った方がいいですか?」
わざと挑戦的に言って、相手の顔を見据えた。
「どのみち好きでもない相手で埋めなきゃならないなら、何故僕に言ってくれなかったんだ!!」
それはあなたを愚弄しろっていうことでしょう?
「卓さんをお遊びの犠牲に出来るわけないじゃないですか。
中途半端が嫌いな人だって、ちゃんとわかってるんです。
そこにたどり着くのは、ホントに最後じゃないと。
長い旅をして、おしまいにたどり着くべき場所です。
行くか行かないかはともかく、途中じゃダメなんです。
卓さん、ラスボスキャラだって自覚ないんですか?」
「ら、ラスボス‥‥?」
「大魔王です!!」
いつかの夢の中で、この人に叱責されたのを思い出した。
お兄ちゃんに抵抗しないのは、やはりあたしの罪だろうか。
この人がそれを知ったなら、あたしを軽蔑するだろうか。
そう、ただそれだけのことなんだ。
その日が来るのが怖くて、あたしは怯え続けているんだ。
ひとりで駆け出した夕暮れの道は、涙で白くかすんでいた。
悪いものを飲み込んだみたいに、お腹の中が苦かった。
吐くものなんて無いはずなのに、吐き気が襲ってきた。
家に帰って、洗面所に飛び込んだ。
鏡の中のあたしは、泥のような顔色のブサイクな娘だった。
もう後悔している。
たった今してきたことを、あんなに考え抜いて選んだことを。
馬鹿なことをしてる。
あんなに真剣に差し出された手を、拒絶した。
唯一の救いの手を振り払った。
あの繊細な白い手を汚すのはイヤだった。
あたしの手は、こんなに泥だらけだから。
ピルケースから、薬を取り出して眺めた。
白くつるんとした糖衣錠。
不意に視界が涙で歪んだ。
錠剤を洗面台に叩き付けた。
薬が何をしてくれるんだ。
こんなもの、ちっとも効きやしない!
「ご機嫌ななめだな」
後ろから声をかけられて、硬直した。
戸口に立ったおにいちゃんの姿が、鏡の中にあった。
「声楽野郎と何かあったのか?」
お兄ちゃんの口調は皮肉混じりだ。
コンクールの話を、母からでも聞いたのだろう。
「声楽野郎とは、別れました!」
言い放って鏡の中から、お兄ちゃんをにらみつけた。
喧嘩のひとつも売りたくなる。
「どう、見上げた妹でしょう?
言い寄る男を薙ぎ払って、実の兄貴にカラダ捧げんのよ。
ありがたくって涙が出るんじゃない?」
お兄ちゃんは、無精ひげだらけの顔に、意地の悪い笑いを浮かべた。
「‥‥なんだかんだ言って、物足りんのだろう、お前。
今さら恋愛ゴッコできるカラダじゃないのが分かってんだな」
近づいて来てあたしの肩に、お兄ちゃんは後ろから顎を乗っけた。
「その野郎は知ってんのか。
お前がアノ時に、どんな声で歌うのか」
慣れたリズムの指先が、胸の先端を探り始める。
「イヤ」
ふりほどくと、その手が下に下りて来る。
「やめてよ!」
鏡に映るので、見たくない光景を見てしまう。
自分の目元がもう潤んで赤らんでいるのが、死ぬほどショックだった。
今日ぐらい、こんな行為とは無縁で過ごしたかったのに。
お兄ちゃんは、あたしの服をたくし上げて胸を露出させた。
わざと鏡に映るように、掌でつかんで弄ぶ。
「やめて、父さんも母さんも、一階に居るんだから!」
「ばれて困るんなら、黙っとけ。
自分で言ったんだろ、カラダ捧げるって。
捧げて見せろよ、ほら」
鏡の中のお兄ちゃんを思い切り睨んだ。
この男、殺そう。
この時初めて、思った。