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16、愛と青春のカットバン

 「戸隠先生にやれって言われたの?」

 席に着いた途端、羽賀先輩がこっそり囁いて来た。

 「え? 何のことですか」

 「ドーピングしろって言われたんじゃないの?

  あいつ、イマイチ気合い入ってないからさ」

 「そんなことは‥‥」

 「違うのか」

 

 こそこそ囁く羽賀先輩の頭を、丸めたパンフがパコンと叩いた。

 戸隠先生だ。

 「人聞きの悪いことを言うな。

  わしゃ、そこまで助平な爺さんじゃないわい」

 「爺さんだけど、助平じゃないんですね」

 「爺さんでもないわい!!」

 「自分で言ったじゃないですかァ」


 先生と先輩の漫才を横目で見ながら、目を閉じた。

 早く照明が落ちないかなあ。

 この涙が、こぼれ落ちないうちに。




 事件はステージの上で起きた。

 先輩がその長身で、ピアノの前に腰を下ろした時だ。

 そのまま時が止まった様に、彼は動かなくなった。


 「おい」

 「なんだ?」

 「どうしたの?」

 会場がザワザワと波立った。

 戸隠先生が、中腰になってうめいた。

 「あの馬鹿め。

  指だ指。 傷が開いたんじゃ」

 

 颯爽とステージに登場した緑川先輩が、まさかの立ち往生。

 鍵盤に一旦置いた掌を、顔の前にかざしたまま途方に暮れている。

 彼の体が急に縮んで、小さくなったように見えた。

 ピアノの座席を調整した時に、傷口からまた出血が始まったらしい。


 「あーや、早くッ」

 室井ちゃんに声をかけられて、我に返った。

 二人で大急ぎでバッグを探る。

 さっきのカットバンと、ティッシュの残りを出す。

 座席を蹴って駆け出すと、ステージは雲の上のように高く遠くに見えた。

 たった10m足らずの距離が、やけに長かった。



 大変なことをしてしまったという思いが、この時改めて湧いて来た。

 3年生は、これからが就活の季節だ。

 声楽の道を選んだ緑川先輩が、ピアノでコンクールに出る機会なんて、もう2度とないに違いない。

 客席の中央通路を、一直線に駆け下りた。


 「せんぱいッ」

 呼びかけた途端、客席からの無数の視線が、背中に突き刺さった。

 ステージいっぱいのライトを浴びて、顔を上げる先輩。

 その表情が、どこか別世界にいるようにぼんやりしている。

 放心してたらしい。

 カットバンとティッシュを差し出すが、受け取る表情もどこか能面のようだ。

 もしかしたら、不測の事態で、上がってしまったのかもしれない。


 「先輩? 頑張ってくださいね」

 声をかけてから、はっとした。

 あたしもひとつ、ボケてたことを思い出したのだ。

 先輩じゃなく、下の名前で呼んで欲しいと、前から何度も言われていたのに。

 今日は朝から、先輩先輩と何度か連発したような気がする。

 こんな時に思い出すなんて、どうかしてるけど。


 「間違えた、先輩じゃなくてスグルさん」

 あたしも上がっていたらしく、思い切り舌が出てしまった。

 先輩がふっと笑った。

 現実味のある表情が、やっと戻って来た。


 

 会場の視線を一身に浴びて席に戻るのは、来る時以上に恥ずかしかった。

 身が縮む思いで、自分の席にたどり着いた。

 そのあたしの背中に、ふわんとした和音が突然追いついて来た。


 芳香を放つような音質の、ピアノの音だった。

 驚いて振り返った。

 演奏が始まっていた。


 さっきまで、他の人が弾いていた、同じピアノだ。

 そのピアノを抱き締めるようにして、先輩が鍵盤を叩いていた。

 

 さっきの人たちと、音が全然違う!!



 何が違うのか、言葉にしては言えない。

 彩り、のようなもの。

 香り、のようなもの。

 風圧、のようなもの。

 そのどれとも似ていて、どれとも違うもの。


 ショパンの曲の中でも、エチュードОp10‐8は、コンクール向きの、技巧重視の曲だ。

 一つ一つのパーツが、正確に組み合わせられないと曲にならない。

 絵の描かれたセロファンを重ねるように、きちんと合わさった中からだけ、ひとつの絵が見えてくる。


 その絵が、天空から見下ろす絶景だという瞬間を、あたしたちは味わっている。

 

 呼吸も忘れるような演奏だった。

 終るまで身動きするのを忘れていた。

 彼の手が鍵盤を離れた瞬間、会場が沈黙した。

 忘れていた息を、会場の皆がまず吸い込んだのだった。


 待ちかねたような拍手は、そのあと起こった。

 「すごい!」

 室井ちゃんが叫んだ。

 「うーん、鳴らしたなあ」

 「ちょっとすごかったねえ」

 「これって、『歌える』曲だったんだねえ」

 後ろの席の青年が、隣席の友人と話しているのが聞こえた。


 

 「あの単細胞め!」

 戸隠先生が、大喜びで手を叩いている。

 「キンギョちゃん、よくやってくれた。

  あんたの大殊勲じゃ!」

 「あたしじゃありません、スグルさんの実力です」

 「いやいや、あの馬鹿はなかなかひとりじゃ、こういう感じに行かんのじゃ。

  国際オペラコンクールの時は、耳たぶでもしゃぶってやって欲しいくらいじゃ」


 「国際コンクールに出るんですか?」

 「なんじゃ、聞いとらんのか。

  もう来月の話で、予選は通過しとる。

  この前の大学祭の時に、ウィーンから来とった教授連中は、予選の時の審査委員じゃ。

  興味を持って、ステージを見に来てくれたらしいの。

  留学の話もされたらしいが、なんせ金がないでなあ。

  コンクール入賞者には支援金がつくんで、そのへんを当てにしとるわけよ」

 「すごい! やっぱり先輩って本物なんですね!」


 「あやつを海外へ出しゃ、わしも肩の荷が下りるわい」

 先生はちょっと涙目になって、照れたように下を向いた。

 「ピアニストにするつもりで引き取ったのに、声楽にとられてしもうたからの。

  まあ、最後にこのくらいの音は、恩返しに聞かせてもらわんとのう」



 

 トイレに行ったら、室井ちゃんが追いついて来た。

 「いいなあ、男の人って可愛いなあ。

  あたしもカレシ、欲しくなっちゃったぞ」

 肩をぐいぐい押されて、ビックリして聞き返した。

 「可愛いの?」

 先輩はすごい人だと思ってばかりなので、可愛いなんて感じること自体、信じ難い。


 「やーだー、可愛いじゃないさぁ。

  魔王のエンジン、あの一瞬でロケット噴射したんだよ。

  あの、たった8mかそこらを、あーやが駆け下りて笑いかけたからだよ!」


 唖然とした。

 それからジワジワと、胸の中が熱くなった。

 同時に悲しみも戻って来た。


 うん。 ホントだね。

 緑川先輩は可愛い。

 でもね、ダメなんだよ。

 もう会わないって、決めたんだもの。




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