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15、ピアノコンクール

 日曜日の朝、あたしは早朝から起きて、台所で動き回った。

 退院したばかりの母は、布団の中で起きている。

 ひとりで動くのは何とかなるが、家事復帰はまだ無理らしい。


 午前8時、お兄ちゃんの部屋のドアを叩いた。

 「あたし、セントラル文化ホールに行くからね。

  ご飯は作ってあるから、時間になったらお願いね。

  洗濯物、夕方に取り込んでくれる?」


 部屋の中から低い声がしたが、なんと言ったのかは聞き取れなかった。

 お構いなく階段を下りた。

 「出るのか」

 奥の和室から、父が出て来た。


 「出ちゃいけない?」

 「いや、その‥‥。 き、今日は接待で、ゴルフに行く」

 「行けば」

 あたしは冷たく言い放つ。

 誰もこの父になんて期待してない。

 母のいなくなった家から簡単に逃げ出して、母の退院と共に舞い戻って来た男だ。



 今回のことで、家族全員が気付いてしまった。

 この男は、母の夫だけど、家長なんかじゃない。

 精神的には、『母の3人目の子供』なのだ。

 ゴルフウェアを出してくれ、とか言わないのが進歩な位だ。


 我が家はダメだ。

 父は父の役目を果たさなかった。

 母は母の仕事をしなかった。

 父の存在を母が代行して、その代行をお兄ちゃんがしていた。

 そのお兄ちゃんが、あたしを無理矢理女にした時、家族の意義自体が崩れた。

 あたしの中でも、何か核になるものが弾けて消えてしまった。


 

 あたしの心の中には、父親らしい人の像がない。

 頼って育ったお兄ちゃんには、裏切られた。

 一番男らしい、頼もしいと感じられるのは、緑川先輩だった。

 その先輩と恋仲になることは、あたしにとって2つ目の近親相姦なのだ。


 「そろそろ真剣に考えてくれないか」

 きのう、電話で緑川先輩に言われた。

 「ステディな付き合いをしてくれないか。

  こういう友達としてじゃ、なくてだ」


 何かとてもひどいことを言われたような気がしたのは、やっぱりあたしが歪んでるからかな。

 今と違う付き合いって、どういうことだろう?

 今だって、1対1で親密に付き合ってるよ。

 お互いの良いところを認めて、弱いトコも少しずつ見せ合って来たよ。

 この上、恋人になって変わる事って、なに?

 

 デートの時に、キスをするようになるって事?

 二人きりになると、服を脱ぐようになるって事?

 今まで見守っていてくれた先輩の中に、そんな欲望があったということ?

 それをあたしに注ぎ込みたい、そういうお誘い?



 どう表現していいか、わからなかった。

 なるべく正直な気持ちに近い事を言ったつもりだった。

 「先輩と付き合うのは、お父さんか何かと、交際するみたいです」

 先輩はずい分ショックを受けているようだった。


 やっぱりちゃんとお別れしよう。

 歪んでしまったあたしの感性じゃ、この先の恋愛は無理だ。

 二人で泥沼に落ちる前に、きれいなままで終ろう。

 頑張っていた、高校時代のあたしの思い出だけは、先輩の中に残っていて欲しいから。



 今日のコンクールを、お別れの日と決めた。

 サヨナラのための台詞を、何度も何度もおさらいした。

 傷つけ合わずに終われるように、あらゆる物に祈った。


 服装も化粧も、一番好きな、自分らしいものにした。

 今日のことは、先輩の辛い思い出として、きっと一生残ってしまう。

 そのイメージの人になる罪のために、せめてきちんと装おう。



 

 会場のホールに入って来た先輩を、網膜に焼き付けようと見つめる。

 骨格のしっかりとした、長身。

 スーツで包むと、日本人離れしたバランスが目立つ。

 そのくせ、戸隠先生と口喧嘩する様子が、ひどく少年めいて見える。

 そして、あたしに向けてくれる、染み入るような笑顔。


 これまで気付かなかったことが、何故だか見えてしまう。

 室井ちゃんのハイテンションに閉口する表情。

 羽賀先輩と軽口を叩き合う姿。

 ポーカーフェイスの緑川先輩から何故、こんなに子供のような純粋な感性が溢れて来るんだろう。

 

 何もかもが眩しすぎた。

 胸がきしんで、泣き出しそうだった。

 せめて何かしてあげようと、胸に造花を付けてあげた。

 出場者を受付の人が判別するための、目印代わりの造花だ。


 

 上着の下へ掌を滑らせ、心臓の上まで移動させた。

 彼の大きな体が、ビクンと緊張した。

 

 あたしと緑川先輩の間に、これまでなかった空気が一瞬流れた。

 性的な匂いのする風だ。

 これまで4年間付き合って、一度も生まれることのなかった風。

 あたしと彼の頭の中を、同じ映像が駆け抜けた。


 ひとつの挑戦だったのかもしれない。

 彼の裏切りを確認するための。

 でも、逃げにかかったのは彼の方だった。

 「いいよ、自分でする」

 造花を、あたしの手からもぎ取ろうとした。


 その時。

 ピンの先が、思いがけなく彼の指先をかすった。

 あっと叫ぶ暇もなかった。

 先輩が凍りついたように、自分の指先を見ている。

 薬指から、赤い血がビーズみたいに盛り上がる。


 ほら、ね。

 ほら、やっぱりそうでしょう。

 あたしは先輩を傷つける役なんでしょう?


 ああ、血がこぼれて来る。

 あたしがつけた、傷口から。

 流れ出す赤を見るのがつらくて、室井ちゃんにバッグの中からカットバンを取ってもらった。

 この後の別れ話では、傷つけた彼の心に、何も貼っては上げられないからだ。


 

 彼の指先を口に含んだ。

 周囲の全員が、息を飲んだ。

 気付かないふりをして見せたけど、ちゃんと分かってた。


 これは、えっちだ。


 「キンギョちゃん‥‥」

 先輩の声が、上ずっている。

 口の中に血の味が広がった。


 ごめんなさい、先輩。

 こういう関係になれなくて。

 4年もあれば、もっと濃厚な付き合いも可能でしたね。

 こんな風に、肌の表面を舐め合って。

 心の裏側まで、体温を伝え合う。

 そんな関係になれた時間の長さだったのに。

 

 ブレーキをかけていたのは、きっとあたしです。

 先輩は優しかっただけ。

 その優しさを、どうか他の女性に向けてあげて下さい。

 きっとステキな恋愛が出来ますから。 


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