13、お互いの秘密
うちの大学の音楽教室、真冬は地獄だ。
設備はとても立派なんだけど、寒い。
音響も抜群なんだけど、寒い!
要するに、天井が高すぎて、短時間では暖房が行き渡らないのだ。
「ラストのソプラノねえ。
高音で苦しいのは分かるけど、もっとソフトにね。 上から軽く乗っける感じで声出してよ。
下からグワワーってせり上がるから、咽喉を締めちゃうんだ。 胸にも力入ってるでしょ。
ラスト、聞かせどころなんだから、夢見るように出して欲しいなあ」
指揮者で部長の西山田先輩が、蜘蛛みたいに細い腕を振りたくって注意した。
「だって、寒いー」
「肩に力、入っちゃうー」
「寒いよう」
2年の通称『回文トリオ』、中岡・岡野・野中の3人娘が、足を踏み鳴らして文句を垂れる。
「だったらもっと、声出そう! あったまるから!」
指揮台でむっとした顔で叫ぶ、西山田部長。
中岡が鼻の穴を膨らまして、
「部長はいいじゃんねえ。 腕振って運動してりゃ、あったかいもんねえ」
と、憎まれ口。
「お前らな、1回自分で振ってみろ!
リズム遅れまくるお前らを、指揮棒で吊り上げてやってんだぞ!
地引網より疲れるよ! 暑いよはっきり言って!」
いいかげん頭に来ていた部長が、悲鳴半分で怒鳴る。
「はーいはい、はーいはい。 そろそろ上がりましょーかぁ。
時間5分前だからね、ねえ部長!」
副部長のリン子先輩が、部長をなだめに出て来た。
そのままなし崩しに、解散がかかった。
「あーや、調子悪そうだね」
室井ちゃんが、荷物をとりに座席まで来て、あたしの顔を覗き込む。
「うん。咽喉のコンディションが最悪」
「風邪か?」
「いや、寝不足かな」
夕べは結局、あの妄想だか悪夢だかの分しか眠れなかった。
研究室を12時に出てから、深夜営業のレストランでコーヒー1杯で粘った。
小遣いが底をついて来て、ネットカフェが遠くなったのが痛い。
「咽喉痛めもするって。 結局ラストの最高音ばっかり、10回もやらされてさあ」
「そうそ、声帯カッサカサになっちゃった」
「西山田って、ソプラノのこと目のカタキじゃん」
「あーあ、おリン姐さんが部長の方が良かったなあ」
『回文トリオ』がドヤドヤやって来て、また文句を言う。
キンキンした独特の声が、頭痛のする頭に突き刺さる。
この先輩たちは、絶え間なく愚痴を言い合ってる。
でも、あたしに言わせると、合唱のレベルを下げてるのはこの3人だ。
ダミ声の、中岡。
音程不如意の、岡野。
リズム失調症の、野中。
声量だけは無駄にあるから、始末が悪い。
隣で歌うと、こっちまで迷子になりそうだ。
おまけにひとりずつが、二人分のスペースをとるくらい太っている。
言っちゃあ何だが、3人並ぶと酸素が行き渡らず、息苦しい。
この3人が入部した昨年度は、「女子部、大不作!」と落胆した男子部員が8名も辞めたそうだ。
「南高が懐かしいだろ?」
教室の出口で、羽賀先輩が寄ってきた。
「あの頃のほうが、断然レベル高いもんな」
「あそこは特別でしたよ。
緑川先輩がいたし、大林先生も熱心だったし」
廊下へ出る人の波に、あたしたちも加わった。
「あ、緑川って言えばさ。
キンギョちゃん、コンクールに行くんだって?
俺もチケット貰っちゃったよ」
「そうなんですか、行きますよ、室井ちゃんとふたりで」
「迎えに行こうか?」
「え、車なんですか」
「兄貴がね。 会場の隣が合同庁舎じゃないか。
仕事でそこに行くって言うから便乗するんだ。
庁舎の駐車場に入れそうにないから、会場に入れられたら都合がいいってさ。
その代わり、帰りは歩きだ、兄貴が昼に乗って帰っちまう。
だから片道だけでよかったら送る。
あのへん、交通の便はイマイチだろ」
「ありがとうございます、助かります」
お礼を言いながら、ふと気になった。
「‥‥緑川先輩は、どうやって会場へ行かれるんでしょう?
大学の寮は朝からじゃ、間に合いませんよね。
ご自宅に戻ったりされてるんでしょうか?」
羽賀先輩は、階段を降りながら目をむいた。
「キンギョちゃん、知らないのか」
「はい?」
「あいつ、実家とは絶縁状態なんだ。
高1の時に勘当されちまって、ピアノの師匠んちに転がり込んでんだぜ」
「と、戸隠先生の家?」
「そ。あの爺ちゃんが、親みたいになってんの」
単に下宿しているのだと思ってた。
「ふーん、話してないのか、あいつ。
高1の時の妊娠事件は、キンギョちゃんに話したって聞いてるけど」
「ああ、同級生の女の子と、って‥‥」
「それそれ。 そのあとすぐ、ゆきな先輩の自殺騒ぎがあって、緑川の親父さんが切れちまったの。
で、お前みたいなのは、うちの息子じゃない!ってやられたんだと」
知らなかった。
頭が混乱して、一瞬意識が真空になった気がした。
あたしと緑川先輩。
ずいぶんいろんなことを、これまで語り合ってきたつもりでいた。
でも、お互い、一番つらいことは話せずにいたのかもしれない。
相手の本当の弱さを、まだ見ていないのかもしれない。
でも、それでいい。
そのまま深入りせずに別れたほうがいい。
コンクールが終ったら、言うつもりでいるのだ。
もう会わない事にしたいって。