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短編

名も知らぬ花

作者: 秋口峻砂

原稿用紙六枚、社会問題、習作

 人間二十五年も生きていると、傷の一つや二つは背負うと思う。

 いや、きっとたった二十五年しか生きていない私が言えば、人生の先達は私の頬を張るだろう。

 それでも、私に選ぶことが出来る道は、もうこれだけしか残されていない。

 大切なのはルールではなく、それをも含めた軌跡という結果だということ。そんな簡単なことに気付く為に、私は何年もの月日を必要とした

 そして気付いた時、手首はボロボロになり、大切なものを失ってしまっていた。




 マンションの十三階にある彼の部屋。ホットミルクを飲みながら、朝靄に揺れるベランダで朝焼けを見ていた。

 もう冬だから、朝の空気は肌を刺すほどに冷たく、とても澄んでいる。

 目の前に広がる景色の中で、人々は普通に生きている。そろそろ朝の早い家ならば、母親が起きて朝食やお弁当の準備していることだろう。

 そう言えば彼は、私が作るお弁当は味が薄いと笑っていた。不貞腐れてそっぽを向けば、困ったように頭を掻いて美味しかったよと誤魔化した。それから出来るだけ濃い目に味付けをしていたけれど、彼にはやっぱり薄かったらしい。

 マンション前の道路を、新聞配達の少年が、白い息を吐きながら自転車を走らせていた。少年はただ前を向き、只管自転車を走らせている。少年の目には何の迷いもない。ただ真っ直ぐに、前だけを向いていた。

 迷うことすら知らなかった頃、私は一人でも構わなかった。誰かに依存するつもりなどなかったし、依存していなかった。

 でも、それを崩してくれたのが彼だった。

 それなのに、どうしてなのだろう。どうして、こうなってしまったのだろう。

 私の所為なのか、それとも彼の所為なのか。私の所為だというのならば、私はどこでそんな重い罪を犯したのだろうか。

 彼の罪だと言うのならば、だから彼はあんなことをしてしまったのだろうか。

 新聞配達の少年を見送り、小さく溜息を吐き、私はゆっくりと空を見上げた。

 いつからだったのか、私は空の青さや星の輝き、月の神秘さ、緑の瑞々しさなどを忘れていた。ここが自分が普通に生きていく世界だということすらも忘れていた。

 でも、普通ってなんだろう。私も彼も、確かに一般社会の中での普通ではなかったけれど、あんなに否定される必要があったのだろうか。

 星の輝きには、強いものや弱いものもある。

 それなのに、どうしてなのだろうか。




 とうとう朝日が顔を出してきた。

 私は別に、存えたい訳ではない。

 もう、この世界に留まる理由はない。でも、それでも、悔しくて涙が出た。

 普通の生き方なんて出来ない。たったそれだけの理由で、どうしてこんな目に遭うのだろう。

 どうしてあんな目に、彼は遭わなくてはならなかったのだろう。ここで生きていく権利すら、なかったというのだろうか。

 そうか、ここにはそんな自由、最初からなかったんだ。ここにある自由とは、普通の中で生きていく人間にだけに与えられた、不自由な自由なんだ。

 朝焼けの中、私はただ泣いた。

 そしてゆっくりと彼の部屋のベランダの柵の上に座る。眼下に広がるのは、彼と共に求めた自由だった。

 ここにはもう、私が生きていくスペースなんてない。

 だから、もう旅立とう。




 不意にベランダの端の、数個の小さな植木鉢の一つに視線が向いた。もう主がいないこの部屋で、一輪の小さな花が咲いていた。

 名前すら分からない、そんな小さな花。

 同じ花があるかどうかすら分からない、そんな花。

 そうか、私は生きていていいんだ。

 どうしてこんな簡単なことに気付かなかったのだろう、他人と違っていていいんだ。

 普通って、それも結局は単なる考え方なんだから、そんなものに拘る必要、なかったんだ。

 彼はきっと、それに気付けなかっただけなんだ。

 ねえ、私は、生きるよ。

 朝焼けに向かって小さく微笑み、私はベランダに降り立つ。

 手首に奔る何本もの傷痕に手を触れ、私は朝焼けに背を向けた。

 一度だけ振り返り、小さな花を見詰める。

 私はこの花のようになればいい。周囲が普通だというならば、私は誰も知らない花になろう。

 生きていく為に理由が在るというのならば、それを探すことを理由にすればいい。私にとってのその何かは、きっと彼にとっての何かだったと信じて。

「またね、ばいばい」

 この部屋に満たされた、懐かしい彼の匂いだけ、決して消さないようにしよう。彼のことを、決して忘れないようにしよう。

 そして私は歩きだそう、もう一度。

 ベランダの端に咲いた小さな花が、優しく笑ってくれているように思った。

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