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150円の女

作者: くまごろー

 目撃時刻は十一時少し前だったはずだ。ちょい待ち、ケータイは一〇時四十六分になってるな。いや、正確な時刻なんてどうでもいいんだけど……。今日の仕事は午後からで、天気予報は夏日になると言っていた。眩しいのがきらいな俺はサングラスをかけて家を出た。


 バスを降りて駅のエレベーターまでわずか一〇歩ほど。その途中で、なんとも形容し難い匂いが俺の鼻腔にもぐり込んできた。香りのような、匂いのような、臭いのような。……香水じゃぁないなぁ、これは……。

 嗅いだことのない匂いだった。ちょっと動物的と言ったらいいのか。ズバリ言ってしまえば、ベビーオイルとラブジュースの混合液のような……。香水だとすればあまり品のいいものではない。


 俺の前を通り過ぎたのは、背の高いサングラスの女。あの女の振りまいた匂いにちがいないが……。みどりの葉っぱに枯れ葉がうまい分量で混じった柄の上着。オフホワイトのスカート。靴は上着を意識してか地味なグリーンでヒールが高い。あと一〇日もすれば靴を枯れ葉色に替えて季節感を出すか。見事じゃないか。オリーブ色の長い髮にゆるやかなウェーブがかかっている。なかなかのシャレ者だ。まったく年齢の見当がつかない。派手な仕事をしているような気もするし、良家の奥さまにも見える。職業も見当がつかない。わからないものは知りたい。


 女は階段を上りかけた身を翻して俺の眼の前でエスカレーターに飛び乗った。風をきった女あとからあの匂いが追いかけてきた。一瞬まよったのはなぜだ? ……あの戸惑いは何だ? ……高いヒールがつらい? ……年か?


 女は三段ほど上り、ちょいと半身になってエスカレーターに寄りかかった。小生意気な若いモデルのようなしぐさ。大きなサングラスがじゃまで表情がわからない。女に甘い俺は、オードリー・ヘップバーンを想像した。たぶん近い線は行くだろう。自分から期待を高める───俺の悪いクセだ。自分の口元がほころぶのがわかった。


 エスカレーターの何段か上のあるふくらはぎと足首はツヤのあるストッキングに包まれてしまっているので、肌のハリ具合がわからない。つまり年がわからない。身につけるものにこだわってるんだろうな。何もかも高そうだ。バッグはルイヴィトン。これまたこの国では年寄りなのか若いのかわからない。


 ……まだ気づいてないな。ストーカーに間違われない程度に〈プチ尾行〉だ。俺の好奇心は行動に移っていった。

 通勤ラッシュの時間が過ぎてしまった駅は閑散としている。

 女はキオスクの前で止まった。さまざまな飲料の入ったショーケースを開けて、ペットボトルのウーロン茶を勢いよく引きぬいた。……朝っぱらから油っこいものでも食ったか?

 傾斜のついた棚から次のウーロン茶が落ちて床に転がり出た。女がしゃがみこんで転がったウーロン茶を拾おうとしたとき、俺はケータイのシャッターを押した。

 ジィ〜〜〜ッカシャッ!

 旧式のケータイのカメラはけっこうな音をたてた。女の両肩がビクッとふるえた。女は最初に取ったウーロン茶を右手に持ち替え、空いた左手で拾ったボトルを脇のハロッズの紙袋に放り込んだ。決定的瞬間がケータイに収まった。女は俺をサングラスで睨むと、何事もなかったように立上がった。無言で店員にウーロン茶をぬっと突き出し五百円玉を出した。店員は三五〇円のつりを渡した。女は受け取った。


 図太い。悪びれたふうもない。いや、サングラスが女の表情を隠しているので、その辺はたしかとは言えない。俺は女から適当な距離を保ちながら、ホームへの階段を下りていった。電車はすぐにやって来た。車輌はほとんどガラ空きだ。女が座った。俺は女のほうに顔を向けずに斜め前に座った。サングラスの下の俺の目は女の様子をうかがった。こちらの表情は読まれてない。口を押さえた女の手がこころなしか震えているようだ。……よし、俺のほうが余裕がある。あ、立った。逃げるッ……。俺は女を追った。


 となりの車輌で今度は女の正面に座って観察した。もはや尾行ではない。女はつけられているのでなく追われていることを知っている。目の表情がわからないサングラスで睨まれるのはイヤな気持ちのものだろう。女は正面の男とは無関係だと言わんばかりに顔をそむけた。そむけはしたが、今回はもう席を立つようすはない。女が今どんな気持でいるだろうかと考えるのは、ネズミを殺さずに弄ぶネコのような愉しさがあった。俺はにらみ続けた。女はとうとう我慢できなくなって声をあげた。


「な、なによ。止めてよ、そうやって見るの。アタシだってやるつもりなんかなかったんだから……」

 女の声はまばらな乗客でも気になるらしく、うわずっていたが大きな声ではなかった。俺は立上がって女の前に進み出て、見上げる顔を見下ろして言った。

「俺はな、見たんだよ」

 自分で言うつもりのないことをしゃべっている俺がいた。

「なんなら俺が騒いでやってもいいんだぜ」

 女の動揺が手に取るようにわかった。

「ね、どうしたらいい?」

「知るかよ、そんなこと」

「アタシだってやろうと思ってやったんじゃないよ。ボトルが落ちて転がったのが悪いんだ……」


 俺は女の理屈にむかし読んだカミュの『異邦人』を思い出して苦笑した。主人公のムルソーがアラブ人を殺したのはギラギラまぶしいアルジェリアの太陽のせいだった。ムルソーの殺人には動機なんてないのだった。


 女の声が低く懇願した。

「ねぇ、アタシ二時までなら時間あるから……。お願いよ、ねぇ」

 俺は驚いた。色んな考えが俺の頭に一度に押し寄せてきた。……据え膳食わぬは何とやら。でもよ、こんなに簡単に正体を見せる女はなぁ。万引女に見透かされ、こんなに見下されちゃあ、俺にだって廃るもんがあらぁ……。午後から仕事だしな。もったいねぇけど乗れる話じゃない…… でも、顔くれえ見ときてぇもんだな。俺は少し凄みをきかせ、それっぽく言った。

(ネエ)さん、サングラスを外しな。付き合ってやるかどうかは、それから決めっからよッ」

 女はていねいに両手でサングラスをはずした。年寄りくさいしぐさだ。女は俺を見上げた。


 ……? ヘップバーンだとぉ? どこがぁ? 女は異様に小さく品のない〈かなつぼまなこ〉を潤ませて俺を見た。五円玉の穴のようなまん丸い目はイタチを思わせた。目尻には彫刻刀でえぐったような深いシワを何本も刻んでいた。くそッ、サングラスなんてずるい婆ァだッ!


「お兄さん、ケータイの写真消してよね。ねえぇ〜、お願いよぉ」

 女は鼻にかかった声を出したが、俺のなかに盛り上がっていた期待感はもう萎んで捨てられるフーセンほどもふくらんではいなかった。女のバカなしつこさに嫌気がさした。ん?……おおッ?……おいッ!……まばたきしてないよっ、婆さん、本気で〈その気〉だよ……。

 じっとみつめる女の目で俺は立場が逆転したことを知った。……俺が釣られたってわけか……。俺は〈香水〉の正体をやっと理解した。(了)

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― 新着の感想 ―
[一言] 男の表情が尽く浮かんでくる、最後の表情を思い浮かべると苦笑がくる作品。個人的に少し苦手ながら、面白かったです。
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