第8話「綻びの連鎖」
「お嬢様、お耳に入れたいことが」
侍女の声が、エステラの朝食の手を止めさせた。
審議から三日が経っていた。王家会議の「保留」判定は、宮廷内の空気を確実に変えていた。
「ミルフィーユ様の証言が、記録と合わなかったそうですわ」
「公爵令嬢様は出席記録を出されたと聞きましたわ」
「王妃様が『精査が必要』と仰ったそうですよ」
侍女のネットワークを通じて、審議の詳細が宮廷中に広まっていた。書記官が筆写した公式記録に反した証言。「記憶違いかもしれません」という訂正。そしてあの控室での、ミルフィの素の声。
「なんで、あんな記録、なんで持っていたの」
涙も敬語もない、冷たい声。それを聞いた侍女が別の侍女に伝え、従者に伝わり、主人の耳に届く。一両日のうちに。
エステラは侍女に向き直った。
「それで、何を」
「本日の朝、ミルフィーユ様がクラーラ様——フォーゲル侯爵家のご令嬢に、きつい言葉をおかけになったそうです」
エステラの手が止まった。
フォーゲル侯爵令嬢クラーラ。ミルフィの数少ない味方の一人だった。審議以前から、ミルフィの傍について彼女を庇う姿勢を見せていた令嬢。
「どのような」
「クラーラ様が審議の結果についてお尋ねになったところ、ミルフィーユ様が『あなたには関係ないでしょう』と仰ったと。かなり冷たいお声だったそうです」
エステラは茶を一口含み、黙った。
ミルフィが焦っている。
審議での証言の綻び。控室での素の態度の露出。宮廷内で広がる噂。それらが重なって、ミルフィの余裕を削っている。余裕がなくなれば、「健気な被害者」を演じ続ける精度が落ちる。精度が落ちれば、素の冷淡さが表に出る。
そしてその素の態度が、味方だった人間に向けられた。
エステラは何もしないことを選んだ。
追撃しない。ミルフィの失態を広める工作もしない。公爵家の力で男爵家養女を追い詰める構図は作らない。審議の場で証拠を提示した。それだけで十分だった。あとは、ミルフィ自身の言動が結果を作っていく。
何もしないこと。それが、今の最善だった。
翌日も、その翌日も、侍女が新しい情報を持ってきた。
エステラは学園での日常を淡々と送っていた。講義に出席し、課題を提出し、茶会で社交をこなす。ミルフィの話題には一切触れなかった。周囲がどれだけ噂をしても、エステラは穏やかに微笑むだけだった。
だが、宮廷の空気は日ごとに変わっていった。
ミルフィの周囲から、人が減り始めていた。
フォーゲル侯爵令嬢クラーラが、ミルフィと距離を置き始めた。「あなたには関係ない」と言われたことが原因だった。クラーラが離れたことで、クラーラに追随していた他の令嬢たちも自然と距離を取った。
ミルフィの傍にいるのは、アルヴィンだけになりつつあった。
「それと、お嬢様」
侍女が声を落とした。
「審議の後、控室でミルフィーユ様がお声を荒らげていたという話が、かなり広まっております。聞いたのは侯爵家付きの侍女だったそうですが、その方からフォーゲル侯爵家に伝わり、そこからさらに——」
エステラは手を上げて、侍女の言葉を止めた。
「わたくしが知る必要はありませんわ」
「はい、お嬢様」
侍女は頭を下げて下がった。
エステラは窓辺に立ち、曇り空を見上げた。
何もしていない。
本当に、何もしていない。審議の場で出席記録を出した。それだけだ。ミルフィの控室での態度を広めたのはエステラではない。クラーラに冷たい言葉をかけたのもエステラではない。味方が離れていったのも、エステラが仕組んだことではない。
ミルフィは自分で自分を崩している。
だが——何もしないことが、これほど残酷になり得るのか。
エステラは自分の手を見た。白い指。何も掴んでいない。何も動かしていない。
前世の百貨店時代を思い出す。理不尽なクレーマーが、自分の言動の矛盾で自滅していく場面を何度か見たことがある。周囲が距離を置き、味方がいなくなり、最後は一人で出口を探して彷徨う。その時、窓口に立っていたエステラは何もしていなかった。ただ、正確に対応しただけだった。
同じだ。
同じことを、今、している。
「わたくしは何もしていませんわ」
声に出して呟いた。
その言葉の意味が、前とは少し変わっていることに気づいた。庭園で泣いた時、茶会で制度を楯にした時、審議で証拠を出した時——あの頃の「何もしていない」は、防衛のための言葉だった。
今の「何もしていない」は、違う。
何もしないことで、相手が崩れていく。その結果を、ただ見ている。
残酷だと思った。だが、エステラから手を出す理由がなかった。
五日目の夕刻。
侍女が、今度は少し違う色の情報を持ってきた。
「アルヴィン殿下が、ミルフィーユ様に何かをお尋ねになったそうです」
エステラは刺繍の手を止めた。
「何を」
「詳しくは分かりかねますが——殿下の侍従が申すには、殿下が『本当のことを話してくれ』と仰ったと」
エステラは針を布に刺したまま、しばらく動かなかった。
アルヴィンの耳にも、噂が届き始めている。
ミルフィの証言の矛盾。控室での素の態度。クラーラへの冷淡な言葉。それらが断片的に、しかし確実にアルヴィンの周囲を包囲している。
アルヴィンは感情で動く人間だ。ミルフィを信じたいと思っている。信じることで自分の判断の正しさを確認している。だが、信じたいという感情と、耳に入る情報の間に、ずれが生じ始めている。
「本当のことを話してくれ」。
その言葉は、まだ信じたいという意志の表れだ。疑っているのではなく、疑いを否定するための材料を求めている。ミルフィが「全部本当です」と泣いて答えれば、アルヴィンはまだ信じるかもしれない。
だが。
ミルフィの涙の効力は、少しずつ削がれている。
審議の場で証言が崩れた。控室で素の声を出した。味方の侯爵令嬢に冷たい言葉を浴びせた。それらの事実が積み重なった上で流す涙が、以前と同じ重さを持つかどうか。
エステラには分からなかった。それはアルヴィンとミルフィの間の問題であり、エステラが介入すべき場所ではなかった。
刺繍に視線を戻した。針を動かす。規則正しい運針の繰り返し。
何もしない。
手を出さない。
ミルフィの虚構が崩れるかどうかは、ミルフィ自身とアルヴィンの問題だ。エステラは同じ土俵に立っただけ。それ以上のことはしていないし、する必要もない。
だが、何もしないことの残酷さを、エステラは静かに噛みしめていた。
窓の外では、日が傾き始めていた。




