第7話「審議の朝」
王城の窓から差し込む朝の光が、審議の間の石壁を白く照らしていた。
高い天井から吊るされた燭台には、まだ火が入っていない。朝日だけで十分に明るい広間だった。正面の壇上に三つの椅子が並び、その前に書記官の机が据えられている。壇上の左右には近衛騎士が直立し、入口にも二名が配置されていた。
王家会議の審議の間。
国王、王妃、宰相の三者が裁定を行う、この国の最高意思決定の場。
エステラは侍女とともに広間に入った。正装に近い装い。公爵家の紋章を留めた胸元の飾りが、朝日を受けて静かに光っている。
広間の右手にはヴィクトール・フォン・グランツハイム公爵が既に着席していた。エステラと目が合うと、小さく頷いた。感情を表に出さない、いつもの父の顔。だがその一つの頷きに、「案ずるな」という意味が込められていることを、エステラは知っていた。
左手には、アルヴィンが立っていた。王太子の正装。その半歩後ろにミルフィが控えている。ミルフィは淡い色の衣装を纏い、両手を前で組んでいた。目は伏せられ、表情は静かだった。嵐の前の凪のように。
エステラは指定された席に着いた。胸の内で、呼吸を整える。
今日は泣かない。
庭園では泣いた。あの時はそれが最善だった。だが王家会議の審議の場は、涙で心証を動かす場ではない。国王と王妃と宰相——この国の最高権威が事実を精査する場だ。
ここでは、実質で勝負する。
書記席に目をやった。政務補佐として着席しているレオンハルトの姿があった。書記官の隣、やや後方の席。表情は平静そのもので、エステラとも、アルヴィンとも、等しく距離を置いた佇まいだった。
壇上に、三名が入った。
国王が中央。穏やかだが隙のない目をした壮年の男性。王妃がその右。背筋の伸びた、美しい佇まいの女性。宰相が左。白髪交じりの、痩せた老年の男性。
全員が着席し、国王が口を開いた。
「では、グランツハイム公爵家の異議申立に基づき、アルヴィン王太子の婚約破棄提起に関する審議を開始する」
声は静かだったが、広間の隅まで通った。
アルヴィンが立ち上がり、壇上に向かって一礼した。
「父上。この婚約を破棄すべき理由は明白です。エステラ・フォン・グランツハイムは、ミルフィーユ・エールバッハに対し、虐めと脅迫を行いました。王太子妃にふさわしくない振る舞いです」
威厳を保とうとする声。だが、エステラの耳には、その声の底に焦りが混じっているのが聞こえた。
「証人として、ミルフィーユ・エールバッハ本人が証言いたします」
宰相が書記官の記録を確認し、頷いた。
「よろしい。では、エールバッハ嬢。証言を」
ミルフィが前に出た。小さな身体を縮こまらせるように歩き、壇上の前に立つ。顔を上げた時、その目には既に涙が溜まっていた。
恐怖泣き。
エステラは即座に判別した。健気泣きでも怒り泣きでもない。「怖い目に遭った被害者」を最大限に演出する型。目を見開き、呼吸を浅く速くし、声を震わせながらも必死に言葉を紡ぐ。
「わたし——エステラ様に、何度も、冷たい言葉をかけられました。人のいない場所で、殿下に近づくなと。逆らえば、どうなるかと——」
涙が一筋、頬を伝った。ミルフィは指先で拭おうとして、しかし間に合わず、二筋目が反対の頬を流れた。
「怖かったの、です。でも、誰にも言えなくて——殿下にお話しするまで、ずっと一人で——」
国王の表情は読めなかった。王妃がわずかに眉を寄せた。宰相は無表情のまま、書記官の記録に目を落としている。
ミルフィの涙は、確かに場の空気を揺らしていた。この場にいる近衛騎士の一人が、無意識に視線をミルフィに向けるのをエステラは見た。庇護欲を刺激する涙の力は、王家会議の場でも有効だった。
アルヴィンがミルフィを庇うように一歩前に出た。
「私自身も証言いたします。ミルフィーユは怯えていました。エステラの前では常に萎縮し、私の傍でしか安心できない様子でした。これは私が直接目にした事実です」
王太子の言葉の重み。この場では、それは一般貴族の証言とは比較にならない影響力を持つ。
エステラの不利に働く可能性があった。
宰相が顔を上げた。
「エールバッハ嬢。証言に具体性が必要だ。『何度も』とのことだが、最も記憶に残っている出来事について、日時と場所を述べよ」
エステラは背筋を伸ばしたまま、静かにその瞬間を待った。
ミルフィが一瞬だけ言葉を切った。間は短かった。だがエステラの目には、その一瞬に走った計算が見えた。
「——先々月の、園遊会の後だったと思います。園遊会のお帰りの際に、お庭の外れで——」
エステラは立ち上がった。
「発言のお許しをいただけますでしょうか」
国王が視線を向けた。ヴィクトール公爵が異議申立の権利に基づき、小さく頷いた。国王が「許す」と短く応じた。
エステラは壇上に向かって深く一礼し、懐から一通の書面を取り出した。
「先々月の園遊会につきまして。こちらは書記官が筆写した公式出席記録の写しでございます」
書面を書記官に渡す。書記官が内容を確認し、宰相に差し出した。
「この記録によりますと、わたくしは園遊会の当日、午前の開始から夕刻の閉会まで出席しておりました。到着と退出の時刻が記録されております。園遊会の閉会後は、公爵家の馬車で直接帰宅いたしました。馬車の手配記録も、お求めであれば公爵家から提出いたします」
宰相が書面を読み、国王に回した。国王が目を通す。
「園遊会の間、わたくしがお庭の外れで誰かと話す時間は、物理的にございませんでしたわ」
静寂が落ちた。
宰相がミルフィに視線を向けた。
「エールバッハ嬢。先ほどの証言では『園遊会の後』とのことだったが、グランツハイム嬢の出席記録と整合しない。説明はあるか」
ミルフィの唇が微かに動いた。
「——記憶違い、かもしれません。怖くて、日にちが曖昧になって——」
「記憶違い、と」
宰相の声は平坦だった。だが、その平坦さの中に、証言全体の信頼性を測る秤が見えた。
一度訂正された証言は、全体の信憑性を損ねる。それがこの国の証言主義の裏面だった。涙で心証を動かせるのと同じ仕組みで、証言の矛盾は心証を削る。
王妃が初めて口を開いた。
「もう少し、精査が必要ではないかしら」
国王が頷いた。
「本件は、追加精査の上、改めて裁定を行う。本日の段階では、婚約破棄の提起は保留とする」
保留。
破棄でも、維持でもない。だが、アルヴィンの提起は通らなかった。
アルヴィンの顔が強張った。何か言おうとして、しかし国王の裁定に異議を唱えることはできなかった。壇上に一礼し、席に戻る。ミルフィもその後を追ったが、足取りがわずかに乱れていた。
エステラは壇上に深く礼をし、席に戻った。
ミルフィの顔から、初めて余裕が消えていた。目の縁に残った涙の跡が、もう武器としての輝きを失っていた。
ここから先は、わたくしが手を下す必要はありませんわ。
エステラは内心でそう判断した。追撃すれば、公爵家の権力で男爵家養女を追い詰める構図になる。それは避けるべきだった。
この場での成果を確定させて、引く。
審議が閉会し、出席者が控室に移動する慌ただしさの中。
エステラは広間を出る際に、書記席のレオンハルトと一瞬だけ視線が交差した。レオンハルトは何の表情も見せなかった。だが、視線を外す直前に、ほんの微かに——顎を引いた。
それだけで十分だった。
控室に向かう廊下の奥から、押し殺した声が聞こえた。
ミルフィの声だった。
「——なんで。あんな記録、なんで持っていたの」
低い声。震えているが、泣いてはいない。涙の気配がない、素の声。
エステラの侍女が、足を緩めてその方向に耳を傾けていた。控室の扉が完全に閉まっていなかったのだろう。
エステラは侍女の腕に軽く触れ、歩みを促した。聞くべきではない——そう判断したからではない。聞かなくても、十分だった。
ミルフィの素の声を、侍女が聞いた。
それは控室が完全な私的空間ではなく、侍女が控えている環境で発された言葉だった。
この宮廷では、侍女の耳に入った言葉は、一両日中に主要貴族の耳に届く。
エステラは静かな達成感とともに、まだ終わっていないという緊張を胸に抱えて、王城の廊下を歩いた。




