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被害者面だけはお上手ですこと。では、わたくしも同じ手を使わせていただきますわ  作者: 月雅


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第6話「兄弟の溝」

レオンハルトが兄に呼び出されたのは、噂が流れ始めた翌日のことだった。


エステラがそれを知ったのは、侍女を通じてだった。レオンハルトの政務室付きの文官が、エステラの侍女と同じ給仕室を使う。そこで交わされた短い会話が、夕刻にはエステラの耳に届いていた。


「レオンハルト殿下が、アルヴィン殿下のお部屋に呼ばれたそうです。かなり長い時間、お話しされていたと」


エステラは刺繍の手を止めた。


噂。エステラとレオンハルトが親しいという噂。ミルフィがアルヴィンに涙ながらに告げた内容が、侍女や従者のネットワークを通じて広まっている。


これは、前世の記憶にない展開だった。


乙女ゲームの原作では、第二王子は端役だった。主人公であるヒロインの攻略対象ではあったかもしれないが、エステラの断罪イベントに深く関わる人物ではなかったはずだ。少なくとも、エステラの記憶にはない。


「密通」という言葉が、噂の中で使われ始めている。


婚約者のある公爵令嬢と、その婚約者の弟である第二王子。政務書類の受け渡しという名目があるとはいえ、接触の頻度が目立てば、そう解釈されても不思議ではない。


エステラは刺繍針を置いた。


原作にない展開。前世の知識が通じない局面。


胸の奥に、冷たい不安が広がった。


これまでは「ゲーム通りに進む」という前提の上で対策を立ててきた。断罪イベントが来る。ミルフィが泣く。アルヴィンが冤罪を突きつける。その流れは原作通りだった。だが、レオンハルトとの接触がミルフィの新たな武器になるという展開は、エステラの前世知識のどこにもない。


この先も、原作通りとは限らない。


その認識が、足元を揺るがした。


翌朝、政務書類の受け渡しの時間。


回廊にレオンハルトの姿はなかった。


代わりに、政務室付きの文官が書類を持って現れた。「レオンハルト殿下は本日、政務が立て込んでおられます」とだけ告げ、書類を渡して去っていった。


エステラは書類を受け取りながら、理解した。


レオンハルトは表立って動けなくなった。


アルヴィンに何を言われたのかは分からない。だが、兄である王太子から「エステラに肩入れするな」と命じられたのだろう。公的場での兄弟間の序列を考えれば、レオンハルトが表面上従うのは当然の判断だった。


頼れる協力者を、一時的に失いかけている。


エステラは自室に戻り、書類を確認した。出席記録の写しは既に手元にある。審議に向けた証拠の照合作業は、自分一人でも進められる。


だが、それ以上の情報——ミルフィの周辺の不自然な動き、新たな証言の準備状況——は、レオンハルトの情報網なしでは掴めない。


窓の外を見た。空は曇っていた。


原作の知識に頼れない。協力者との接触も制限された。


ここから先は、目の前の事実だけで戦うしかない。


三日が経った。


審議まで残り一週間。エステラは出席記録の照合を終え、ミルフィの証言と矛盾する日付を特定していた。手元の証拠は揃っている。


だが、不安は消えなかった。


レオンハルトとの接触が途絶えたことで、ミルフィ側の動きが見えない。新たな証言を準備しているのか。別の手を打ってくるのか。情報がない。


その日の夕刻。


政務書類の定期回送に、一枚の紙片が挟まれていた。


文官が届けた書類の、最後のページの裏側。小さな、しかし端正な筆跡で数行だけ書かれていた。


「噂は放置しろ。否定すれば騒ぎが大きくなる。審議でこちらの証拠が通れば、噂の出所ごと信頼を失うのはあちら側だ。記録照会は通常業務の範囲で継続する。表には出ない」


署名はなかった。だが、この筆跡を見間違えるはずがなかった。


エステラは紙片を二度読み、静かに息をついた。


レオンハルトは、表向きはアルヴィンの命令に従っている。エステラとの直接接触は避けている。だが、政務補佐としての通常業務——書記官への記録照会——は、アルヴィンが禁じた「肩入れ」の範囲に含まれない。政務上の記録確認を止める権限は、王太子にもない。


その隙間を、冷静に、正確に使っている。


感情に流されない判断。事実と論理に基づいた行動。


そしてエステラは、この紙片に書かれた言葉で、自分の判断が立て直されたことに気づいた。


原作にない展開に動揺した。協力者を失いかけて不安になった。その不安は、前世の知識に依存していた自分の弱さから来ていた。


だが、レオンハルトの言葉は前世の知識ではない。今、目の前にある事実に基づいた判断だ。


「噂は放置する。審議で勝てば、全て片付く」


エステラは声に出して繰り返した。


原作の知識ではなく、目の前の事実で戦う。その覚悟を、この紙片が確かなものにした。


紙片を蝋燭の炎にかざし、灰にした。証拠は残さない。


その夜、侍女が別の情報を持ってきた。


「アルヴィン殿下とレオンハルト殿下のご関係が、以前より冷えているようだと、近衛の間で話題になっているそうです」


エステラは頷いた。


兄弟の間に、明確な溝が生じている。アルヴィンがレオンハルトを呼び出し、エステラへの関与を止めるよう命じたこと自体が、二人の間の距離を広げた。レオンハルトが表面上従いながらも裏で動いていることを、アルヴィンが知ればさらに溝は深まるだろう。


そしてアルヴィンは、その不安をミルフィへの依存で埋めようとするはずだ。ミルフィの言葉を信じることでしか、自分の判断の正しさを確認できないから。


悪循環だった。


エステラはレオンハルトに迷惑をかけたことへの罪悪感を感じていた。政務書類の受け渡しという名目で接触を重ねたのはエステラの側の都合でもあった。その結果、レオンハルトは兄との関係に亀裂を入れることになった。


だが同時に、別の感情もあった。


あの紙片の言葉。前世の知識ではなく、この人の判断で立て直された。


前世の十年間、理不尽なクレームに対処するたびに、エステラは自分の中の引き出しだけで解決してきた。誰かの言葉で立て直されたことは、一度もなかった。


それが今、一枚の紙片で。


演技ではない感情が、胸の内側で小さく動いた。


エステラはその感情に名前をつけなかった。今はまだ、つける必要がない。審議が先だ。


紙片の灰を片付け、審議用の書類に目を戻した。


王家会議の審議まで、あと一週間。


ミルフィの焦りは、日を追うごとに強まっているはずだった。涙が通じない場に引きずり出されることへの恐怖。それが次にどんな手を生むのか。


エステラは手元の出席記録を確認し直した。


目の前の事実で、戦う。

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