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被害者面だけはお上手ですこと。では、わたくしも同じ手を使わせていただきますわ  作者: 月雅
第5章

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第3話「机上の正しさ」

レオンハルトが椅子から立ち上がったのは、商会の会館に通されてすぐのことだった。


港湾商会の会館。フェルトハーフェンの中心部に建つ石造りの建物。港に面した窓から朝の光が差し込み、長い卓の上に並べられた書類を白く照らしていた。


卓の向こう側に、商会長ゲオルクが座っていた。


六十歳の男だった。白髪交じりの短い髪。日に焼けた肌に深い皺が刻まれている。商人の装いだが、背筋は真っ直ぐだった。東部の貿易商を三十年以上束ねてきた人間の、追従のない佇まい。


ゲオルクの両隣と背後に、主要な貿易商が数名座っていた。昨日、侍女が報告した通りだった。商会長一人ではなく、組合全体の総意を確認する場。


レオンハルトが口を開いた。


「本日は商会の皆様にお時間をいただき感謝する。通商条約改定に伴う港湾整備投資案について、説明させていただきたい」


政務補佐の声だった。事実と論理を並べる、あの声。


「港湾整備投資の規模は——」


数字が並んだ。投資の総額。工期の見通し。関税の経過措置。商会側と王家側の負担配分。アルヴィンの助言通り、商会側の初期負担を先に提示した。レオンハルトの声は明瞭で、数字は精緻で、論理は明快だった。


アルヴィンが領地経営の観点から補足した。投資の回収期間。東部全体の貿易量への波及効果。王太子としての落ち着いた声で、実務的な論点を短く正確に述べた。


宰相が認めた代案だった。王家会議で承認された婚約を支える、政治の裏づけとなる提案だった。


エステラは卓の端に座っていた。陪席の席。レオンハルトの隣ではなく、少し離れた位置。発言権のない同席者としての定位置。


説明が終わった。


ゲオルクは静かに聞いていた。説明の間、一度も口を挟まなかった。表情も変わらなかった。


沈黙が落ちた。


ゲオルクが口を開いた。


「三十年前にも、中央から正しい計画書が来ました」


声は低かった。落ち着いていた。だがその落ち着きの底に、長い時間をかけて固まったものがあった。


「数字は完璧だった。工期も予算も計算通りだった」


ゲオルクの目がレオンハルトを見た。


「——で、工事は止まり、商人が三軒潰れた」


会館の空気が変わった。


貿易商たちの視線がゲオルクに向いた。三十年前を知っている者たちの目だった。数字の完璧さと、その数字が現場で何を引き起こしたかを覚えている者たちの目。


レオンハルトが応じた。


「三十年前の計画と本代案の差異は——」


「差異は分かります、殿下」


ゲオルクが遮った。


遮り方は丁寧だった。礼節を崩してはいなかった。だが王族の説明を途中で止める行為自体に、この人物の覚悟があった。


「数字が違うことくらい読めます。殿下の計画書は確かに三十年前のものとは違う。精緻で、よく練られている」


ゲオルクの声に追従はなかった。事実を認め、しかしそこで止まらない声だった。


「私が聞きたいのは一つだけだ」


ゲオルクの目が、真っ直ぐにレオンハルトを射た。


「これが失敗したら、誰が責任を取るんですか」


沈黙が落ちた。


レオンハルトは即答した。


「俺が取る。この代案の提案者は俺だ」


声に迷いはなかった。政務補佐として、代案を作り、宰相に提出し、王家会議で説明した人間の声だった。


ゲオルクの表情は変わらなかった。


「殿下のお立場で、どのように」


短い問いだった。だがその問いの刃は鋭かった。


王族が「責任を取る」と言った。だが王族が商人の損失に対して取れる「責任」とは、具体的に何なのか。政務補佐からの解任。公的な叱責。宮廷での処分。


だが商人が求める「責任」は、そのどれでもなかった。


損失の補填。廃業した者への救済。計画が失敗した時に、誰が金を出し、誰が痛みを引き受けるのか。


王族の「責任」と商人の「責任」は、同じ言葉で違うものを指していた。


レオンハルトの口が——止まった。


即答できなかった。


数拍の沈黙の間に、エステラはレオンハルトの横顔を見た。答えに詰まった表情ではなかった。答えを持っていないことを自覚した表情だった。数字は精緻に組んだ。論理は明快に並べた。だが「責任の具体的な形」は、制度の中に見当たらない。


ゲオルクはレオンハルトの沈黙を待った。急かさなかった。追い詰めもしなかった。ただ待っていた。答えが出ないことを、既に知っている人間の待ち方だった。


エステラは陪席の席で、そのやり取りを聞いていた。


ゲオルクの目を見た。


あの目は宰相の目ではなかった。制度の論理で量る目ではなかった。カッセル侯爵の目でもなかった。悪意や政治的な打算で動く目ではなかった。


怒りの目だった。


三十年前に商人が三軒潰れた。数字は完璧だった。計画は正しかった。だが現場で失敗した。失敗しても、中央から来た人間は異動になるだけで、責任を取らなかった。


その怒りが、三十年分の厚みを持って、ゲオルクの目の奥に沈んでいた。


前世の対人技術が反応した。


相手の要求の核を聞き取る技術。百貨店の窓口で十年間培った力。クレームの言葉の裏にある本当の要求を聞き分ける力。


ゲオルクが求めているのは——計画の正しさではない。


覚悟だ。


計画が失敗した時に逃げない覚悟。数字の正しさではなく、数字が間違った時に誰がそこに立っているかという覚悟。


ゲオルクが席を立った。


「計画書は読ませていただく。回答は三日後に」


面会は保留で終わった。


貿易商たちがゲオルクに続いて席を立ち、会館を出ていった。最後にゲオルクが振り返り、レオンハルトに一礼した。礼節は崩さなかった。だがその一礼に、合意の気配はなかった。


迎賓館。


レオンハルトの表情が硬かった。


「責任を取ると言った。だが——具体的な形を示せなかった」


自覚があった。この人は自分の失敗を正確に把握する。数字を精緻に組む人間だからこそ、数字で答えられなかった問いの重さを理解していた。


アルヴィンが口を開いた。


「三十年前の失敗の詳細を調べる必要がある。当時の記録が商会に残っているなら、具体的に何が起きたのかを把握した上で対策を組み込める」


実務的な提案だった。王太子として、領地経営の知識を持つ者として、次の手を冷静に考える声。


レオンハルトが頷いた。


「記録の閲覧を商会に依頼する」


二人が次の手を動かし始めた。


エステラは黙って聞いていた。


だが頭の中では、ゲオルクの言葉の奥にあるものを解析していた。


あの目。あの声。「誰が責任を取るんですか」という問い。


数字への疑いではなかった。数字が正しいことは認めていた。論理が明快であることも認めていた。


それでも動かない。


数字が正しくても動かない理由がある。三十年前に「数字は正しかったが現場で機能しなかった」計画を経験しているから。


ゲオルクが求めているのは「計画の正しさ」ではなく「計画が失敗した場合に誰が責任を取るのか」という覚悟の証明。


その構造が、陪席の席から、見えていた。

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