第4話「公爵家の盾」
エステラは書簡を書いていた。
レオンハルトの忠告から一夜。自室の書き物机に向かい、羽根ペンを走らせる。宛先は父、ヴィクトール・フォン・グランツハイム公爵。公爵家の領地と王都を繋ぐ書簡は、専属の騎馬伝令を使えば即日届く。
内容は状況報告の体裁を取った。王太子殿下より婚約に関するお話がございました。庭園にて、身に覚えのない件についてお言葉を賜りました。詳細は同封の別紙に記します。
助けを求める文面にはしなかった。あくまで公爵家の当主に対する、事態の正確な報告。それが公爵令嬢としての作法であり、エステラ自身の矜持でもあった。
別紙には、庭園での出来事の経緯を正確に記した。アルヴィンの言葉、ミルフィの同席、居合わせた者たちの顔ぶれ。事実のみを、感情を交えずに。
封蝋を押し、侍女に伝令への手配を指示する。
それから、もう一通。こちらは短い。
万が一、殿下が公の場で婚約破棄をご宣言された場合の対応について、お父様のご判断を仰ぎたく存じます。
ペンを置いた時、指先がわずかに震えていた。
一人で戦うつもりだった。前世の経験を武器に、自分の力で切り返すつもりだった。だが、レオンハルトの言葉が耳に残っている。「兄上の次の動きは早い」。アルヴィンが次に仕掛けてくるのは、庭園のような半私的な場ではないかもしれない。
公の場で来るなら、涙だけでは足りない。
制度が要る。
返信は、翌朝に届いた。
ヴィクトール公爵の筆跡は、いつも通り穏やかで整然としていた。
娘の報告に感謝する。事態は把握した。王太子殿下の婚約破棄のご提起がなされた場合に備え、公爵家として王家会議への正式異議申立書を準備する。殿下の単独宣言には法的効力がないことは、娘も承知の通り。手続きを盾とする。何も案ずることはない。
最後の一文だけ、筆圧がわずかに強かった。
お前を守る。それが公爵家当主としての責務であり、父としての意志である。
エステラはその一文を二度読み、静かに書簡を畳んだ。
学園の大広間。月に一度の公式行事、貴族子弟による合同茶会。
舞踏会よりも格式が高い。教師陣が列席し、学園騎士が入口と四隅を巡回している。各家の子弟が家名を背負って社交の腕を見せる場であり、ここでの言動は宮廷への報告対象にもなる。
エステラは侍女を伴い、入口で一礼して広間に入った。
空気が重かった。
庭園での一件から数日。「王太子と公爵令嬢の不和」は噂として広まっており、エステラに向けられる視線の温度が変わっていた。同情の目もあれば、距離を置こうとする目もある。どちらの味方にもつきたくない、という計算が透けて見えた。
エステラは気にしなかった。前世でも、店内で揉めた客の隣のテーブルが空になる光景は何度も見ている。人は面倒事から距離を取る。それは善悪ではなく習性だ。
広間の奥に、アルヴィンがいた。
正装に近い上着を纏い、数名の側近と言葉を交わしている。その傍にミルフィが控えていた。いつもの半歩後ろの位置。今日は目元に赤みがない。泣いた跡も、泣きそうな気配もない。
代わりに、その手に薄い書面が一枚握られていた。
エステラの胸に、冷たい予感が走った。
茶会が始まり、しばらくの歓談が続いた後。
アルヴィンが広間の中央に歩み出た。
場が静まる。王太子が公式行事の場で発言することは、それだけで注目を集める。
「皆に、伝えるべきことがある」
アルヴィンの声は、庭園の時とは違っていた。感情を抑え、威厳を保とうとする声。王太子としての権威を意識した話し方。
「エステラ・フォン・グランツハイムとの婚約について。私は、この婚約を破棄する」
広間に、息を呑む音が広がった。
「理由は明白だ。エステラは、ミルフィーユ・エールバッハに対して虐めと脅迫を行った。証人もいる」
アルヴィンの視線がミルフィに向いた。ミルフィが一歩前に出る。手にした書面を胸に抱え、俯きがちに口を開いた。
「わたし——エステラ様に、脅されました。人のいない場所で、もう殿下に近づくなと。逆らえば、どうなるか分かっているでしょうと——」
声が震えている。恐怖泣きの前段階。小柄な身体を縮こまらせ、怯える小動物のような姿は、周囲の庇護欲を確実に刺激していた。
ざわめきが広がる。令嬢たちの視線がエステラに集まった。
エステラは、動かなかった。
内心で、呼吸を整えていた。
ここは公の場だ。教師がいる。学園騎士がいる。報告の対象になる場だ。
泣くか。
いいえ。
庭園では泣いた。あの時はそれが最善だった。だが今は違う。公式行事の場で涙を流せば、場を混乱させた責任が問われかねない。
ここでは、別の武器が要る。
エステラは一歩前に出た。背筋を伸ばし、視線をアルヴィンに向けた。
「殿下。お言葉を賜りましたこと、恐れ入りますわ」
声は穏やかだった。震えも、怒りも、涙もない。公爵令嬢としての、完璧な制御。
「ですが、一つ確認させていただきたいことがございます」
アルヴィンの眉が微かに動いた。反論が来ること自体は予想していたのかもしれない。だが、この冷静さは想定外だったのだろう。
「殿下と公爵家の婚約は、王家会議の決議により成立した国家間の契約でございます。その破棄には、国王陛下、王妃殿下、宰相閣下の三者合議による正式決議が必要と、わたくしは理解しておりますが」
広間の空気が変わった。
ざわめきが、別の種類の静けさに変わる。エステラの言葉の意味を、居合わせた貴族子弟たちが咀嚼している。
「殿下のお言葉は、婚約破棄の『ご提起』として承りますわ。ですが、正式な『決定』は王家会議にお委ねいただくのが、法に則った手続きではございませんこと?」
アルヴィンの表情が強張った。
「私は王太子だ。この程度のことに——」
「ええ、殿下は王太子でいらっしゃいます。だからこそ、法を守られるお姿をお見せになるのが、殿下のお立場ではないかとわたくしは存じますわ」
エステラの声には、一切の攻撃性がなかった。むしろ敬愛すら滲んでいた。王太子を立てながら、しかし手続きの壁を突きつける。前世の接客業で学んだ技術の応用。相手の自尊心を傷つけずに、しかし要求を通さない。
アルヴィンは口を開きかけ、閉じた。
周囲の視線が痛かったのだろう。「王太子が法を無視した」という印象を、この場で確定させるわけにはいかない。
ミルフィの新たな証言——脅迫があったという訴え——も、宙に浮いた。エステラが制度の話に切り替えたことで、証言の真偽を議論する場がなくなった。
そこに、追い打ちをかけるように。
広間の入口に、学園騎士が現れた。手に書面を持っている。
「アルヴィン殿下。王家会議の書記官より、至急の書簡です」
書簡がアルヴィンの手に渡された。封を開き、目を通すアルヴィンの顔色が変わった。
ヴィクトール・フォン・グランツハイム公爵の名で、王家会議に正式な異議申立書が提出済みであること。婚約破棄の件は王家会議の正式審議に付されること。それまでの間、一切の独断的措置は保留とすること。
公爵家の盾が、先に動いていた。
アルヴィンは書簡を握りしめ、一瞬だけミルフィを見た。ミルフィの顔には、まだ怯えの演技が貼り付いていた。だが、その演技を発揮する場が消えていた。
「——この件は、王家会議に委ねる」
アルヴィンはそれだけ言って、書簡を懐に収めた。踵を返し、側近を従えて広間を出ていく。ミルフィがその後を追った。
広間に残されたのは、静まり返った貴族子弟たちと、背筋を伸ばしたまま立つエステラだった。
茶会の後、自室に戻ったエステラは椅子に深く腰を下ろした。
侍女が淹れた茶の香りが、部屋に広がる。
守られた。
父の異議申立が間に合った。手続きの壁が、アルヴィンの独断を止めた。
安堵があった。同時に、胸の奥に小さな棘が刺さっている感覚があった。
今回は、父が動いてくれたから止められた。公爵家の権威が、制度が、盾になった。
だが次は。
王家会議の審議に移る。そこではミルフィの証言が正式に取り上げられる。脅迫があったという訴え。証人がいると言っていた。
泣くだけでは通らない場に、戦場が移った。それはエステラにとっても、ミルフィにとっても同じだ。
あの子は初めて、涙だけでは通用しない場所に引きずり出される。
エステラは茶を一口含み、窓の外を見た。
父に守られるだけではいけない。
次の戦いは、自分の足で立たなければならない。
王家会議の審議日程が、近く通知されるはずだった。




