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被害者面だけはお上手ですこと。では、わたくしも同じ手を使わせていただきますわ  作者: 月雅
第4章

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第8話「隣に立つ理由」

この婚約は、誰のものか。


その問いを胸の中で繰り返しながら、エステラは王城の廊下を歩いていた。


王家会議当日。朝の光が石の壁を白く照らしている。


エステラの隣をヴィクトール公爵が歩いていた。父の足音は静かだった。いつもと同じ歩幅。公爵家当主として王城に赴く時の、揺るぎのない足取り。


「準備はいいか」


ヴィクトールが声を落とした。


「はい、お父様」


エステラの声は落ち着いていた。震えてはいなかった。


会議室の扉が開いた。


王城の会議室。天井の高い石造りの部屋。長い卓が中央に据えられ、燭台の灯りと窓からの光が交差している。


出席者の顔を、エステラは一人ずつ確認した。


卓の上座に国王。五十歳の男の表情は穏やかだが、その奥にある重さをエステラは知っていた。冷却期間の終了を宣言した人。「報告書よりも雄弁だった」と言った人。合理性と情の両方で判断する人。


国王の隣に王妃マルガレーテ。三日前、薔薇園で手を重ねてくれた人。今日の王妃の目は、あの日の庭とも、最初の客間とも違っていた。静かだった。秤を降ろした人の目だった。


アルヴィンが王太子の席に座っていた。再教育中の兄。弟と共に国王の前に立ち、代案のために領地経営の知識を提供した兄。エステラと目が合うことはなかった。だがその横顔に、かつてミルフィの涙に動かされていた頃の甘さはなかった。


宰相グラーフ。制度の番人。「検討の余地がある」と代案を認めた人。だが「国王陛下は総合的に判断なさる」と釘を刺した人でもある。


主要閣僚が二名。エステラにとって面識の薄い顔だった。


そして——レオンハルト。


当事者として同席する第二王子は、卓の端に近い席に座っていた。政務の装い。書類の束を手元に置いている。代案の資料。交渉記録の分析。港湾整備の試算。


レオンハルトの目がエステラを見た。一瞬だけ。それから視線を卓の上の書類に戻した。


エステラとヴィクトールは、申入れ側の席に着いた。


婚約申入れの書面が読み上げられた。


宰相が立ち上がり、手続きの確認を行った。書面の形式、提出日、受理日、審議の法的根拠。制度の番人の仕事。淡々と、正確に。


「なお」


宰相が一拍の間を置いた。


「通商条約改定交渉との関連について、第二王子殿下から代案が提出されております。この点を踏まえた上での審議をお願いいたします」


国王が小さく頷いた。


「出席者の意見を聞こう」


国王の声は落ち着いていた。広間に響く低い声。あの謁見の間で兄弟を見た時と同じ、静かな重さを持った声。


沈黙が落ちた。


レオンハルトが立ち上がった。


「代案について説明いたします」


政務補佐の声だった。事実と論理を並べる、あの声。


「通商条約の改定交渉において、ヴェルディーア公国の特使は婚姻提案と条約を結びつける形で交渉を進めています。しかし条約の本質的な争点は関税率と通商拡大であり、婚姻は交渉を円滑にする手段に過ぎません」


レオンハルトの声には疲労の影があった。交渉記録を精査し続けた日々の痕跡。だがその声は明瞭だった。


「王国東部の港湾整備への投資を条約に組み込むことで、公国側に婚姻と同等の利益を提示できます。投資規模と回収期間の試算は、王太子殿下の協力のもと作成いたしました」


アルヴィンが小さく頷いた。王太子としての公式な同意の所作。


宰相が口を開いた。


「代案の合理性は認められます。港湾整備投資の試算は妥当であり、公国側にとっても婚姻条件に代わる実質的利益となり得ます。手続き上の障害はございません」


制度の番人が、代案を認めた。


会議室の空気がわずかに動いた。だがまだ終わりではなかった。国王は黙って聞いていた。判断を下していなかった。


レオンハルトが一拍の間を置いた。


「代案は政務補佐としての提案です」


声の質が変わった。


政務の調子が消えた。事実と論理を並べる声ではなくなった。


「だがもう一つ、俺個人として述べたいことがある」


会議室が静まった。


宰相の手が卓の上で止まった。閣僚二名が視線を上げた。アルヴィンがレオンハルトを見た。王妃の目がわずかに動いた。


「この婚約は、国政の材料ではない」


レオンハルトの声は低かった。平坦ではなかった。感情を排してもいなかった。だが震えてもいなかった。


合理性を尽くした上で、なお残ったもの。代案という論理を揃え、交渉記録を精査し、港湾整備の数字を並べ、政務補佐としてできる全てをやった上で、それでもなお消えなかったもの。


「俺が、俺の意志で、この人を選んだ。それを——ここで、はっきり申し上げる」


感情を公の場に持ち込んだ。


かつて国王の前で兄と並んで立った時、レオンハルトは感情を見せた。あの時は「怖かった」と後からエステラに打ち明けた。感情を公にすることの重さを知った日だった。


今回はもっと重かった。国益と感情の二者択一を突きつけられた上での発言だった。合理性が「犠牲にすべきだ」と囁く中で、それでも感情を選んだ。


感情で動くこと。兄と同じになること。あの恐怖を、この人はここで終わらせた。


兄は合理性なしに感情で動いた。レオンハルトは合理性を尽くした上で感情を選んだ。


その違いが、この瞬間に明確になった。


エステラは立ち上がった。


「わたくしからも、一言申し上げたく存じます」


通例を超えた行為だった。婚約の申入れ側の発言は、通常は当主が代弁する。ヴィクトールが隣に座っている。父が代弁すれば、慣習の枠内に収まる。


だが慣習の枠内では、紙の上の言葉のままだった。


国王はエステラを見た。制止しなかった。


「この婚約はわたくし自身の意志でございます」


宰相の前で言った言葉と同じだった。だが今、この場で、この出席者の前で言う重さは、あの執務室とは比べものにならなかった。


「辞退を考えたこともございました」


王妃の目がエステラに向いた。三日前の薔薇園を知っている目。


「殿下のため、国のため、退くべきではないかと」


声は静かだった。公爵令嬢の完璧な口調だった。だがその口調の下に、あの庭園で父に「辞退した方が」と口にした日の震えが、消えずに残っていた。


「ですが——退くことは、わたくしの意志ではなく、わたくしの癖でした」


癖。


あの書斎で父が問うてくれた言葉。前世の窓口を知らない父が、それでも届かせてくれた一言。


「今ここに立っているのが、わたくしの意志です」


エステラは国王の目を見た。


国王の表情は読めなかった。だがその目は、エステラの言葉を聞いていた。紙の上の文字ではなく、目の前に立つ人間の声を。


王妃がエステラを見ていた。秤ではない目で。薔薇園で手を重ねた人の目で。


アルヴィンが短く口を開いた。


「私からも異論はない」


王太子としての公式な発言。短く、明確で、それ以上の装飾がなかった。再教育を経た人間の、自省の行き届いた言葉だった。


宰相が続いた。


「代案の実現可能性は認められます。婚姻を条件としない交渉が成立する見込みがある以上、手続き上の障害はございません」


制度の番人が、最後の壁を降ろした。


国王が長い沈黙を置いた。


会議室の空気が止まった。窓から差し込む光が、卓の上の書面を照らしていた。婚約申入れの書面。代案の資料。手続きの記録。紙の上に揃ったものと、声で伝えられたもの。


「本婚約を承認する」


国王の声は静かだった。


承認。


その一言が会議室に落ちた瞬間、エステラの視界が滲んだ。


泣きそうだった。だが泣かなかった。


涙の代わりに、笑みが来た。


泣く必要がない嬉しさで笑うということが、初めてかもしれなかった。嘘泣きで始まった物語の中で、涙ではなく笑みが先に来た瞬間。


レオンハルトが「俺個人として」と言った声。あの声は震えていなかった。合理性を尽くした上で、なお残った感情。あれが、この人の本物だった。


王家会議の閉会後。


出席者が席を立つ中、国王がレオンハルトを呼び止めた。


「レオンハルト」


国王の声は公式の場の声ではなかった。もう少し柔らかい——父の声に近い何か。


「代案はよく出来ていた」


レオンハルトが頭を下げた。


「だが——お前が『個人として』と言った時の方が、私には響いた」


エステラはその言葉を、少し離れた場所で聞いた。


あの謁見の日に国王が言った言葉が重なった。「報告書よりも雄弁だった」。あの時と同じ構造。紙の上の論理よりも、目の前の人間の声に動かされる国王の判断。


レオンハルトは数拍の間、何も言わなかった。


「ありがとうございます、父上」


短い一言だった。だがその声に、あの庭園で「怖かった」と言った時の震えはなかった。


怖さを越えた先にある、静かな声だった。


エステラは会議室を出て、廊下の窓際に立った。


午後の光が石の壁を照らしている。


承認された。


婚約が、王家会議で、正式に承認された。


書面の重さから始まった。王妃の秤を知り、外交の影に怯え、辞退の安堵に流されかけ、父の一言に立ち止まり、問題の前提を崩し、代案を作り、王妃の手の冷たさを知り、そして今日——この場に立った。


退かなかった。


癖に負けなかった。


エステラは窓の外を見た。午後の空は晴れていた。


レオンハルトが廊下の向こうから歩いてきた。政務の書類は持っていなかった。


「承認された」


レオンハルトが言った。短く。事実の確認のように。


「ええ」


エステラは笑った。涙のない笑みだった。


レオンハルトの口元がわずかに動いた。あの人なりの笑みだった。


二人の間を、午後の光が照らしていた。

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