第7話「義母の手」
薔薇園の生垣の向こうで、小鳥が一羽、短く鳴いた。
王家会議の三日前。王妃マルガレーテがエステラを呼んだ場所は、前回の客間ではなかった。王城の一角にある、王妃が個人的に手入れしているという薔薇園だった。
薔薇の季節には少し早く、蕾がようやく膨らみ始めた頃だった。手入れの行き届いた低い生垣が小径を囲み、石のベンチが二つ、向かい合うように置かれている。王妃付きの侍女は小径の入口に離れて控えていた。
実質的な一対一。
前回の客間では侍女が壁際に同席していた。今回は違う。場所も、距離も。
王妃は石のベンチに座っていた。薔薇園の手入れをしていたのか、指先にわずかに土がついていた。穏やかな佇まい。だが前回の面会とは空気が違っていた。公式の客間ではなく、個人の庭。王妃の私的な領域にエステラを招き入れた。
「座ってくださいな」
王妃の声は穏やかだった。だが前回のような隙のない問いの気配がなかった。もう少し——柔らかい。
エステラは向かいのベンチに腰を下ろした。背筋を伸ばし、膝の上で手を重ねた。
「あなたに一つ聞いておきたいことがあるの」
王妃が言った。
「公国の公女の話を聞いて、あなたはどう思いましたか」
エステラの心臓が一拍、強く打った。
前回の面会とは問いの質が違っていた。あの時は経歴の確認から始まり、婚約解消の経緯を職責として確認する形だった。今回の問いは、もっと直接的で、個人的だった。
王妃の声に、前回にはなかった色があった。
エステラは嘘をつかなかった。
「辞退しようと思いました」
王妃の目がわずかに見開かれた。
予想していなかった答えだったのだろう。エステラの口から「辞退」という言葉が出ることを。
「わたくしが退けば、殿下も国も困らないと」
エステラは王妃の目を見ていた。秤で量られることを恐れなかった。あの客間では王妃の秤が見えなかった。今も見えていない。だが今日は、秤の前で退かないと決めて来ている。
「でも、父に問われました。それは意志か、癖かと」
王妃は黙って聞いていた。
「わたくしの癖は——退くことでした。ずっと」
声は静かだった。公爵令嬢の完璧な口調ではなかった。もう少し素に近い声。あの庭園で敬語が崩れた時ほどではないが、公式の仮面を少しだけ外した声。
「退くことに慣れすぎて、それを判断だと思い込んでいました。自分が身を引けば丸く収まる。それが正しい選択だと」
王妃の指が、膝の上でわずかに動いた。
「今は退きません」
エステラは言った。
「これがわたくしの意志です。殿下の隣に立ち続けることが」
長い沈黙が落ちた。
薔薇園の生垣の間を風が抜けていった。蕾がかすかに揺れた。
王妃はエステラの顔を見ていた。前回の面会の時とは違う目だった。あの時は職責と個人の感情が混在した、名前のつかない秤の目だった。今は——秤が揺れていた。
「わたくしも——退く癖がある人間です」
エステラの呼吸が止まった。
王妃の声が変わっていた。穏やかさは残っていたが、その下にあるものが違った。隙のなさが消えていた。代わりに、剥き出しの何かが声の底にあった。
「あの子に母として接しようとして、拒まれて、退いた」
あの子。レオンハルト。
王妃がレオンハルトのことを「あの子」と呼んだ。公式の場では決して使わないであろう呼び方。義母が義子に対して——母として踏み込もうとした時に使っていたであろう呼び方。
「それを『義母の分際で出過ぎた真似はすまい』と、体面の言葉で覆い隠した」
エステラは息を止めたまま聞いていた。
王妃の秤が——壊れていた。
いや、壊れたのではない。王妃自身が秤を降ろしたのだった。
あの客間で、王妃はエステラを秤で量ろうとしていた。社交的な適格性。作法。品格。職責としての判断基準。だがその秤の裏側に、もう一つの動機があったことを、王妃自身が今、認めた。
秤で量ろうとしていたのは、エステラの適格性ではなかった。
自分自身の後悔だった。
レオンハルトに母として踏み込めなかった後悔。退いた後悔。その後悔を体面の言葉で覆い隠してきた年月。
エステラが「退く癖」と言った言葉が、王妃の中の何かに触れた。エステラの弱さの告白が、王妃自身の弱さと共鳴した。
「退くことに慣れている、とあなたは言いましたね」
王妃の声はかすかに震えていた。
「わたくしも慣れていました。体面という言葉に隠れて、退くことに。義母として出過ぎないことを、正しい態度だと思い込んで」
エステラの目が熱くなりかけた。だが泣かなかった。今は泣く場面ではなかった。
王妃は「王家会議では、あなたの味方をします」とは言わなかった。
代わりに、別の言葉が来た。
「あなたは退かないのね」
確認だった。問いかけではなく、確認。
「はい」
エステラは答えた。短く、明確に。
王妃が立ち上がった。エステラも立った。
王妃がエステラの前に歩み寄った。一歩だけ。
そしてエステラの手に、一瞬だけ自分の手を重ねた。
王妃の手は冷たかった。
薔薇園の風が二人の間を吹き抜けた。
手が離れた。一瞬の接触だった。だがその一瞬に、言葉にならない何かが通った。
王妃は踵を返し、薔薇園の奥へ歩いていった。背中は穏やかだった。だがその背中に、秤を降ろした人間の軽さがあった。
自室に戻り、窓辺の椅子に座った。
王妃の手が触れた。あの人の手は冷たかった。
でも冷たい手で触れようとしてくれた。
レオンハルトに母として踏み込めなかった人が、わたくしには——義母ではない、何か別の名前の関係で、手を重ねてくれた。
あの客間で秤の正体が分からなかった。職責なのか、個人の感情なのか。
答えはどちらでもなかった。
後悔だった。
退くことに慣れた人間の後悔が、退こうとしているわたくしを見て、揺れた。
同じ癖を持つ人間同士だった。
エステラは自分の手を見た。王妃の手が触れた場所。冷たかった手の記憶が、指先に残っていた。
侍女が声をかけた。
「お嬢様。レオンハルト殿下から伝言でございます。『義母上と話したと聞いた』と」
エステラは小さく微笑んだ。
「ええ。良い方ですわ、王妃様は」
侍女が伝言を持ち帰る。レオンハルトがこの言葉を聞いた時、どんな顔をするだろう。
「母と呼んだことはない」と言ったこの人が、「良い方だ」というエステラの言葉を聞いて。
きっと一瞬驚いた顔をして、「——そうか」とだけ答えるのだろう。
王家会議の前日を迎えようとしていた。
代案は紙の上にある。覚悟は胸の中にある。
そして王妃の冷たい手の記憶が、指先にある。
退かない。
それだけを持って、三日後の会議に臨む。




