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被害者面だけはお上手ですこと。では、わたくしも同じ手を使わせていただきますわ  作者: 月雅
第4章

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第6話「一枚の代案」

代案は紙の上にあった。だが紙だけでは人は動かない。


王家会議まで一週間。エステラは侍女からの報告で、レオンハルトとアルヴィンが共同で作成した代案の進捗を聞いていた。


「港湾整備投資を通商条約に組み込む案を、レオンハルト殿下が宰相閣下に提出されたそうです」


エステラは自室の椅子に座り、膝の上の刺繍枠に目を落としたまま聞いた。


「アルヴィン殿下が再教育で得た領地経営の知識を基に、港湾整備の投資規模と回収期間の試算をまとめられたと。それをレオンハルト殿下が交渉記録の分析と組み合わせて、一つの提案書にされたそうです」


兄弟の協力が、具体的な形になった。


アルヴィンの領地経営の知識。レオンハルトの交渉実務の分析力。二つが合わさって、婚姻なしで通商条約を前進させる代案が生まれた。あの謁見で国王の前に並んで立った兄弟が、今度は政務の実務で並んで動いている。


「宰相閣下は『検討の余地がある』と仰ったそうです」


エステラの手が、刺繍の針の上で止まった。


検討の余地がある。


宰相が代案の合理性を認めた。条約と婚姻を結びつけていた構造に、別の道が開けた。


だが——。


侍女の報告は続いた。


「ただし宰相閣下は、こうも仰ったそうです。『代案が成立しても、国王陛下が婚姻提案を退けるとは限らない。国王陛下は公国との関係を総合的に判断なさる』と」


エステラの胸の中で、期待と重さが同時に動いた。


代案の合理性だけでは、国王の最終判断を確実に動かせない。


宰相は制度の番人だった。制度の論理で代案の妥当性を認める。だが国王の判断は制度だけで動くものではなかった。


あの謁見の場で、国王はレオンハルトとアルヴィンが並んで立った姿に「報告書よりも雄弁だった」と言った。政務の論理ではなく、父としての情が動いた瞬間だった。


国王は合理性と情の両方で判断する。


代案という合理性は用意できた。だが情を動かすものが、まだ足りない。


回廊の窓際。


レオンハルトが書類を手渡しながら、宰相の反応を報告した。


「代案の合理性は認められた。だが宰相は釘を刺した。『国王陛下は総合的に判断なさる』と」


「ええ。伺いました」


エステラは書類を受け取りながら、考えていた。


あの謁見の日。国王の言葉。「報告書よりも雄弁だった」。あの人は、紙の上の論理よりも、目の前に立つ人間の姿に動かされた。


代案は紙の上にある。合理性は揃った。


だが王家会議で、紙を読み上げるだけでは足りない。


「殿下」


エステラは声を落とした。


「王家会議で、わたくし自身が発言する必要があると思いますの」


レオンハルトの手が止まった。


「通例では、婚約の申入れ側の当主が代弁いたしますわね。お父様が」


「ああ」


「けれど——わたくし自身が立たなければ、この婚約がわたくしの意志であることは、紙の上の言葉のままですわ」


宰相の前で意志を明言した。あの時は制度の壁を越えるためだった。今回は違う。国王の情を動かすために、自分の声で、自分の言葉で、王家会議の場に立つ。


制度上、婚約の当事者が王家会議で発言することは禁じられていない。だが通例では当主が代弁する。エステラ自身が立つことは、慣習を超えた行為だった。


レオンハルトはエステラの目を見た。


数拍の沈黙。


「王家会議で、お前が話すのか」


「ええ」


レオンハルトの表情がわずかに動いた。あの庭園で「踊ってくれるか」と聞いた時の表情に似ていた。問いかけの形をした確認。この人の覚悟を受け取るための間。


「——俺も、話す。代案の説明だけではなく」


エステラは息を止めた。


代案の説明だけではなく。


それは政務補佐としての合理的な提案の枠を超えるということだった。レオンハルトが個人として、感情を、王家会議という公の場に持ち込むということだった。


あの謁見で国王の前に感情を持ち出した経験がある。だが今回は「国益と感情の二者択一」を突きつけられた上での発言になる。合理性だけでなく、感情も。両方を、あの場に持ち込む。


二人が同時に覚悟を固めた。


回廊の窓から差し込む光が、二人の間を照らしていた。


公爵家の屋敷。父の書斎。


エステラは自分の決意をヴィクトールに伝えた。


「王家会議で、わたくし自身が発言したいと思います」


ヴィクトールはエステラの目を見た。


公爵家当主としての秤が動いている気配があった。娘が慣習を超えた行為に踏み出そうとしている。その政治的なリスクを量る目。


だが数拍の後、秤が下りた。


「それがお前の意志なら、私は後ろに控えよう」


父の声は静かだった。


「だが代弁の準備はしておく。万が一、お前が言葉に詰まった時のために」


父として退き、公爵として備える。その二つを同時にやってのけるヴィクトールの言葉に、エステラの胸が熱くなった。


「ありがとうございます、お父様」


「礼は要らない。お前が自分の足で立つと決めたなら、親の仕事は後ろで見ていることだ」


ヴィクトールの声がわずかに柔らかくなった。公爵家当主から、父に変わる瞬間。何度聞いても、この変化にエステラの胸は動いた。


自室の窓辺。


代案は紙の上にある。合理性は揃った。


でも紙だけでは人は動かない。


あの庭園で「好きだ」と言った声。あの声の温度。嘘のない、震えのない、確かな声。


あれと同じものを、王家会議の場に持ち込まなければならない。


政治の場に、感情を。制度の中に、本物を。


宰相の前で意志を明言した時は、怒りが背中を押した。他者に意志を奪われることへの怒り。あの時は制度の壁を越えるために、言葉を武器にした。


今回は怒りではなかった。


守りたいものがある。


この人の隣に立ち続けるという意志。退かないという選択。癖ではなく、意志で選んだ場所。


それを守るために、王家会議の場に立つ。


エステラは刺繍枠を膝に置いた。


針を動かした。一針。また一針。


あの庭園で一針しか刺せなかった日が、少し前のことのように思える。


王家会議まで一週間。


侍女が控えめに声をかけた。


「お嬢様。王妃マルガレーテ様から、お呼び出しがございました。王家会議の前に、もう一度お話をしたいと」


エステラの手が止まった。


王妃。


あの客間で保留にされた答え。冷たくも温かくもなかった目。職責と個人の感情が混在した、名前のつかない秤。


もう一度、あの人の前に立つ。


エステラは刺繍枠を膝から下ろし、背筋を伸ばした。


今度は——あの秤の前で、退かない。

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