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被害者面だけはお上手ですこと。では、わたくしも同じ手を使わせていただきますわ  作者: 月雅
第4章

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第5話「分離不能」

切り離せないとしたら、どうするのか。


その問いが、エステラの頭の中で形を取り始めたのは、王家会議まで十日を切った朝のことだった。


回廊の窓際。いつもの場所。


レオンハルトの顔に、疲労の色があった。目元の影が、政務補佐として実権が定着した頃よりもさらに深くなっている。通商条約の交渉記録を精査する作業が、通常の政務に加わっているからだった。


「正直に言う」


レオンハルトが書類を手渡しながら、声を落とした。


「交渉と婚姻を別々に扱うのは——難しいかもしれない」


エステラの指が、書類の上で止まった。


「特使のニコラウスは交渉の場で巧みに二つを結びつけている。条約の条文案に婚姻の言葉は出てこない。だが交渉の進め方自体が、婚姻を前提にした譲歩の組み方になっている。引き剥がそうとすると、条約の構造そのものが崩れる」


レオンハルトの声は政務の調子だった。事実と論理を並べる声。だがその論理が、自分自身を追い詰めていることを、エステラは聞き取った。


「宰相も認めている。『二つを切り離すことが合理的ではない状況がある』と」


宰相が認めた。制度の番人が、条約と婚姻は一体だと認めた。


レオンハルトは政務補佐として通商条約の重要性を理解している。決裂すれば東部の貿易商が打撃を受ける。その合理的な判断が、「切り離せない」という結論に自分自身を追い込んでいる。


感情ではなく、合理性が。


この人の合理性が、この人の感情を圧迫している。


エステラはレオンハルトの横顔を見た。


あの冷却期間中、「踊りたい」と言えなかった時と同じ構造だった。だが今回はもっと深い。あの時は政治的リスクの計算が感情を抑えていた。今回は「国益」という、否定しようのない重さが感情の上に載っている。


感情で動けば国政を歪める。


それは、かつてアルヴィンがミルフィの涙に動かされて判断を誤った構図と同じだった。レオンハルトが最も恐れている構図。感情で動くこと。兄と同じになること。


その恐怖が、今度は「国益と感情の二者択一」という形で、レオンハルトの前に立ちはだかっていた。


エステラの胸の中で、「退けば済む」の声がまた頭をもたげた。


条約と婚姻が一体なら、辞退すれば——。


安堵が来かけた。あの、慣れた安堵。身を引く痛みの方が、居続ける恐怖よりも楽だという、前世の癖。


だが父の声が楔になった。


「癖か」。


あの一言が、安堵に流れそうになる足を止めた。


退くことは癖だ。意志ではない。十年間の窓口が染み込ませた行動様式だ。


ならば——退かない道を探す。


エステラは呼吸を一つ整えた。


「殿下」


声は静かだった。だが、震えてはいなかった。


「切り離せないなら——切り離さなくても婚約が成立する、別の道を探しませんか」


レオンハルトの目がわずかに動いた。


「条約の交渉が、婚姻なしでも前進する根拠を見つけられれば、婚姻を交渉の条件から外せます」


二つを引き剥がすのではない。引き剥がさなくていい状況を作る。


問題の前提を変える。


かつて商会の工作でレオンハルトの信用が削られようとした時、エステラは問題の焦点を移した。推薦状の前提を崩し、問題の構造そのものを変えた。


あの時と同じ発想だった。条約と婚姻を切り離すのではなく、条約が婚姻なしで成立する根拠を探す。婚姻が条件でなくなれば、二つを別々に扱う必要もない。


レオンハルトの表情が変わった。


政務補佐の目が動いた。合理性が新しい可能性を計算し始めている。


「条約の本質的な争点は関税率だ」


レオンハルトが声を落とした。思考を言葉にしている。


「婚姻は交渉を円滑にする手段に過ぎない。手段は婚姻でなくても成立する——別の利益を公国側に提示できれば」


「ええ」


「公国が求めているのは、関税の引き下げだけではない。東部の港湾を通じた通商の拡大だ。王国側が港湾整備への投資を条約に組み込めば——」


レオンハルトの声が速くなった。事実と論理が結合していく速度。この人が最も本領を発揮する瞬間。


「婚姻と同等の利益を、別の形で提示できる可能性がある」


可能性。


まだ確信ではなかった。だが行き止まりだったはずの道に、取っ掛かりが見えた。


「ただし——」


レオンハルトが声を落とした。


「この提案を通すには、国王陛下と宰相を説得する必要がある。交渉記録を精査し直して、具体的な数字を揃えなければならない。そして港湾整備の実現可能性を裏づける資料が要る」


「実現可能性の裏づけとは」


「港湾整備にはどれだけの投資が必要で、どれだけの期間で回収できるか。領地経営の知識が要る。俺の専門ではない」


レオンハルトが一拍の間を置いた。


「だが——使える知識を持っている人間がいる」


エステラはその視線の先にあるものを読み取った。


自室に戻ったエステラのもとに、夕刻、侍女が伝言を持ってきた。


「レオンハルト殿下から。アルヴィン殿下が『港湾整備の件、再教育で学んだ領地経営の知識が使える』と申し出てくださったそうです」


エステラの胸の中で、何かが動いた。


アルヴィン。


再教育の中で領地経営を学んでいた王太子。弟と共に国王の前に立ち、兄弟の間に橋を架けた人。


その兄が、今度は外交問題の解決に向けて、弟に手を差し伸べた。


兄弟の協力。あの謁見での共同が、政治の実務へと発展しようとしている。


エステラは窓の外を見た。


条約と婚姻は一体だと聞いた時、安堵しそうになった自分がいた。「やっぱり退くしかない」と言い訳できる。退く理由が合理的であればあるほど、癖は心地よくなる。


だが父の言葉が刺さっている。「癖か」。


退くことの安堵は、癖の味だった。


慣れた味。十年間飲み込み続けた味。あの窓口で、配置転換を受け入れた時の味と同じだった。


退かない道を探す。この人の隣で。


問題の構造を変える。前提を崩す。商会の工作を退けた時と同じだ。


あの時は一人で動いた。レオンハルトに相談せずに。


今回は違う。


エステラが問いを投げ、レオンハルトが可能性を見出し、アルヴィンが手を差し伸べた。一人ではなかった。


一人で立てる人間が、隣に誰かを選ぶ。それは依存ではなく、選択だった。あの舞踏会の後に自分が思ったことが、今ここで形を変えて返ってきた。


エステラは刺繍枠を手に取った。


昨日は一針しか刺せなかった。


今日は、もう少し進めそうだった。


王家会議まで十日。


代案はまだ形になっていない。交渉記録の精査と、港湾整備の資料作成。レオンハルトとアルヴィンが動いている。


エステラにできることは——退かないこと。


この人の隣に立ち続けると決めたことを、癖に侵されずに保ち続けること。


それが今の、わたくしの領分だった。

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