第3話「嘘の見分け方」
回廊に差し込む午後の光が、石の床に窓格子の影を落としていた。
学園の東棟と西棟を繋ぐ渡り廊下。授業の合間の時刻で、生徒の往来はまばらだった。遠くから弦楽器の練習音が微かに聞こえる。
エステラは侍女を伴い、次の講義室へ向かって歩いていた。昨日の庭園での一件は、一夜にして宮廷内の噂になり始めていた。「王太子と公爵令嬢の不和」。すれ違う令嬢たちの視線に、好奇と警戒が混じっているのを感じる。
エステラの足が止まった。
回廊の先に、一人の青年が立っていた。
柱に背を預け、片手に数枚の書類を持っている。学園の制服だが、仕立てが明らかに上等だった。昨日、庭園の柱の影からこちらを見ていた人物。
レオンハルト・フォン・レグニツァ。第二王子。
エステラは一瞬だけ足を緩め、すぐに歩調を戻した。公爵令嬢として、王族の前で不自然に立ち止まるわけにはいかない。
レオンハルトが柱から背を離し、エステラの方へ歩み寄った。手にした書類を軽く掲げて見せる。
「グランツハイム嬢。政務書類の回送で、公爵家宛ての控えがある。ここで渡しておいていいか」
声は落ち着いていた。端正だが、兄であるアルヴィンのような威厳を纏う話し方ではない。簡潔で、無駄がない。
「ありがとうございます、レオンハルト殿下。お手数をおかけいたしますわ」
エステラは礼をして書類を受け取った。公爵家宛ての政務書類を王子が直接渡すこと自体は、学園内では珍しくない。政務補佐としての通常業務の範囲だった。
書類を受け渡す間、侍女が数歩離れた位置に控えている。回廊には他に数名の生徒が行き交っていた。二人きりではない。
レオンハルトは書類を渡し終えた後も、その場を離れなかった。
「昨日の庭園。見事だった」
前置きのない一言だった。
エステラの指先が、受け取った書類の上でわずかに動いた。それ以外に動揺の色は出さなかった。
「何のことでしょうか、殿下」
「とぼけなくていい」
レオンハルトの視線が、真っ直ぐにエステラを捉えた。昨日、柱の影から見ていたのと同じ——感情に揺さぶられない、観察者の目。
「君の涙、全部嘘だろう?」
回廊の空気が、一瞬だけ張り詰めた。
エステラは表情を動かさなかった。
嘘泣きを見破られること。それは昨日の庭園で手にした武器を、根元から折られることに等しい。この言葉が宮廷に広まれば、エステラの涙は二度と効力を持たなくなる。
目の前の人物が味方か敵か、まだ分からない。
公式行事で挨拶を交わした程度の、形式的な面識しかない相手。政務補佐を務めているという情報以上のことは知らない。アルヴィンの異母弟という血縁関係がある以上、兄の側につく可能性も十分にある。
ここで嘘を重ねるか。否定するか。
エステラは一瞬だけ迷い、そして——否定しないことを選んだ。
下手な嘘は、この目の前の観察眼を敵に回す。昨日の庭園での一部始終を、あの距離から見抜いた人間に、取り繕いは通じない。
「ええ」
エステラは穏やかに、しかし微笑みを消さずに答えた。
「でも、あの子の涙よりはマシでしてよ」
沈黙が落ちた。
回廊を行き交う生徒たちの足音が、遠い場所の出来事のように聞こえた。
レオンハルトは、ほんの一拍の間を置いて、低く笑った。声に出さない、喉の奥だけの笑い。
「正直だな」
「嘘をついても見抜かれるのでしたら、正直でいる方が効率的ですわ」
「効率、か」
レオンハルトは腕を組んだ。背筋は伸びたまま、しかし肩の力は抜けている。王族としての作法を身につけていながら、それに縛られていない立ち方だった。
「一つ聞いていいか。昨日のあれは、いつから準備していた」
「殿下の呼び出し状を受け取った時からですわ」
「一晩で仕上げたと?」
「十年ですわ」
エステラは自分でも意外なほど、自然にその言葉を口にしていた。前世の記憶に関わる言葉を、こんなに平然と出したのは初めてだった。
レオンハルトは怪訝そうに片眉を上げたが、追及はしなかった。
「興味深い」
その一言に、社交辞令の響きはなかった。エステラは前世の接客業で培った勘で、言葉の温度を測った。建前ではない。この人物は、本当に興味を持っている。
「もう一つ、伝えておくことがある」
レオンハルトの声が、わずかに低くなった。
「エールバッハの養女——ミルフィーユだったか。あの娘の周辺で、不自然な動きがある」
エステラは黙って先を待った。
「具体的に言える段階ではない。だが、政務書類の処理をしていると、人の動きの流れが見える。あの娘の名前が絡む案件に、通常の男爵家養女では説明のつかない筋がいくつかある」
レオンハルトは視線を回廊の窓の外に向けた。
「俺は事実と論理で判断する人間だ。感情で動く人間は——観察対象でしかない」
その言葉を、エステラに向けたのか、あるいは自分自身に言い聞かせたのか。
「だが、君は違った」
視線が戻る。
「嘘泣きと知りながら、合理的に使う。感情の道具を、感情に溺れずに振るう。俺が見てきた宮廷の人間とは、少し毛色が違う」
エステラは答えを返す前に、一つの判断を下していた。
この人物は、情報を持つ協力者になり得る。
政務補佐の立場。書記官や文官との繋がり。宮廷内の情報の流れを把握できる位置にいる人間。エステラが一人では手の届かない場所に、手が届く人物。
そして、嘘を見抜いた上で、それを武器として使うことを否定しなかった。
「殿下は、わたくしの味方になってくださるのかしら」
「味方という言葉は使わない」
即答だった。
「事実を集めて、事実に基づいて判断する。その結果が君にとって有利に働くなら、結果的にそう見えるかもしれないが」
「それで十分ですわ」
エステラは微笑んだ。今度は演技ではない——が、どこまでが演技でどこからが本音なのか、自分でも曖昧になっていることに気づいた。
この感覚は、前世にはなかった。
十年間の接客業で、エステラは常に自分の感情と他人の感情の境界を明確に管理してきた。演技は演技、本音は本音。混ざることはなかった。
だが今、目の前のこの人物に対して、どの引き出しを開けているのかが、少しだけ曖昧だった。
小さな戸惑い。ほんの些細な、しかし確かな違和感。
レオンハルトが踵を返した。
「長く話しすぎた。政務書類の受け渡しとしては、不自然な長さだ」
侍女の存在を意識しての言葉だった。
回廊の角に向かって歩き出し、数歩進んだところで足を止めた。振り返らないまま、横顔だけをわずかにこちらに向ける。
「兄上の次の動きは早い。準備しておくことだ」
それだけ言って、レオンハルトは回廊の角を曲がり、姿を消した。
エステラは書類を手にしたまま、しばらくその場に立っていた。
侍女が控えめに声をかける。
「お嬢様。次の講義のお時間が」
「ええ。参りましょう」
歩き出す。足取りは普段と変わらない。
だが胸の内には、庭園で泣いた時とは異なる種類の緊張が残っていた。
あの人は、嘘をつく相手ではない。
前世でも今世でも、そう感じた相手はいなかった。嘘を見抜いた上で、嘘そのものではなく、嘘の使い方を評価する人間。
そして——レオンハルトの忠告が正しいなら、アルヴィンの次の手はすぐに来る。
昨日の庭園で断罪を不成立にした。だが、アルヴィンは諦めていない。次は、どんな形で来るのか。
準備しておくことだ、と彼は言った。
エステラは書類を侍女に預け、講義室への歩みを速めた。
次の手を打つための時間は、おそらく、あまり残されていない。




