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被害者面だけはお上手ですこと。では、わたくしも同じ手を使わせていただきますわ  作者: 月雅
第3章

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第9話「一曲の嘘もなく」

エステラは席を立った。


広間の空気が変わったのは、二曲目の前奏が流れ始めた瞬間だった。


王城の大広間。天井から下がる無数の燭台が蝋燭の灯りで空間を満たし、石の床が金色に光っていた。壁際には貴族たちが並び、広間の中央には一曲目を終えた男女が下がっていく。


全貴族が集う場。年に一度の大舞踏会。


エステラは公爵家の席に座っていた。ヴィクトール公爵が隣にいる。父の表情はいつも通り穏やかで、その奥に秤がある顔だった。


胸元に、白い野花が一輪。


宮廷で好まれる豪華な花ではなかった。庭園の片隅に咲くような素朴な花。他の令嬢たちの胸元を飾る宝飾や薔薇と比べれば、ひどく地味だった。


だがこの花を選んだのはレオンハルトだった。それだけで十分だった。


王族の入場は舞踏会の開幕と共に行われていた。国王と王妃が壇上に着き、アルヴィンが先に広間に入り、レオンハルトが続いた。


レオンハルトが入場した時、その視線がエステラの胸元を捉えた。


一瞬だった。広間を見渡す動作の中で、公爵家の席に座るエステラの胸元の白い花を見つけた。口の端がわずかに上がった。すぐに戻った。だがエステラはそれを見逃さなかった。


一曲目が始まり、終わった。定型の舞踏。国王と王妃が一曲目を踊り、続いて数組の貴族が広間の中央に出た。


二曲目の前奏が流れ始めた。


レオンハルトが動いた。


王族の席から立ち上がり、広間の中央を横切って、公爵家の席に向かって歩いてきた。


全貴族の視線が集まった。


第二王子が、公爵令嬢の席に向かっている。その意味を、この場にいる全員が理解していた。


エステラの心臓が強く打った。


来た。


レオンハルトがエステラの前に立った。右手を差し出した。


「踊ってくれるか」


庭園で聞いた言葉と同じだった。だが今、この言葉は全貴族の前で発せられていた。半私的な庭園ではなく、王家主催の大舞踏会の広間で。王族が特定の令嬢に手を差し出す——婚姻の意図を公に示す、最も格式高い慣習的表明。


視線が集まっている。


全員が見ている。


前世の恐怖が一瞬だけ顔を出した。視線の中心。注目されること。攻撃されること。窓口に立つ自分に向けられた怒声と視線の記憶が、身体の奥で震えた。


だがレオンハルトの手が目の前にあった。


あの回廊で書類を渡していた手。庭園で「嘘はつきたくない」と言った時、身体の横に下ろしていた手。冷却期間中、二ヶ月以上、感情を抑え続けた手。


エステラはその手を取った。


「ええ」


一言。演技ではない返事。声は小さかったが、震えてはいなかった。


レオンハルトの手が、エステラの手を包んだ。温かかった。


二人が広間の中央に進んだ。


音楽が流れていた。エステラの足が動いた。公爵令嬢として身につけた舞踏の所作が、身体を導いていた。


踊っている。


全貴族の前で。視線を浴びながら。中心に立って。


心臓が速かった。足は重かった。前世の十年間が作った重さが、まだ足の裏にあった。


だが足は止まらなかった。


レオンハルトの手が導いている。この人の手を取るために、空の広間で一人立った。裏方の自分を越えると決めた。怖いからやめる人間にはならないと決めた。


恐怖はある。あるけれど足は動く。


踊りながら、エステラの頭の中にあったのは前世の窓口でもなく、宮廷の政治でもなかった。


目の前のこの人の顔だけだった。


レオンハルトの表情は平静に近かった。だがその目は、回廊で初めて嘘泣きを見破った時の冷めた目ではなかった。庭園で「十分だ」と言った時の、あの柔らかい目だった。


嘘泣きから始まった。嘘を見破られ、嘘と知った上で手を組んだ。婚約を解消し、商会の工作を退け、冷却期間を耐えた。泣かなかった。演技しなかった。嘘のない感情を確認し合い、嘘のない言葉を選んだ。


今——嘘のない手を取って踊っている。


一曲が終わった。


音楽が止まり、最後の音の余韻が広間の天井に消えた。


拍手が起こった。


広間の壁際から、貴族たちの拍手が波のように広がった。定型の礼儀としての拍手だけではなかった。上位貴族の席から明確な祝意を込めた拍手が聞こえた。ブレンナー侯爵夫人の席の方向。伯爵家の席。ヴィクトールが事前に地盤を固めた貴族家からの、社交的承認の拍手だった。


壇上で、国王が微かに頷いた。冷却期間の終了を宣言した国王が、息子の選択を静かに認めている。


アルヴィンが視線を逸らさず見ていた。かつての婚約者が弟と踊る姿を。その目には、かつての自尊心の痛みはなかった。再教育を経て、弟と共に父の前に立った王太子の目だった。


ヴィクトール公爵が席から娘を見ていた。その目は公爵家当主の秤を下ろし、父の目になっていた。


宰相グラーフは異を唱えなかった。冷却期間は正式に終了し、令嬢自身の意志は確認済みであり、手続き上の問題はない。制度の番人は、制度に沿う結果に異を唱える理由を持たなかった。


カッセル侯爵は拍手に加わらなかった。


その態度が、周囲の貴族の目に映った。広間全体が祝意の拍手に包まれる中、拍手をしない侯爵の姿は目立った。王太子変更論の推進が国王の明言に反していたこと。社交の場で流した噂が宰相への面会で無効化されたこと。その全てが、拍手に加わらない態度に集約されていた。


拍手をしないことが、カッセル侯爵自身の立場を削っていた。


エステラはそれを視界の端で捉えたが、視線は向けなかった。


侯爵のことは、もういい。


エステラとレオンハルトは広間の中央から下がった。手を離す瞬間、レオンハルトの指がわずかに遅れた。意図的か無意識か、エステラには分からなかった。


公爵家の席に戻る途中、ヴィクトールの目と合った。父は小さく頷いた。それだけだった。それだけで十分だった。


席に着いた。


心臓がまだ速かった。手のひらに、レオンハルトの手の温度が残っていた。


踊った。


全貴族の前で。嘘のない一曲を。泣かなかった。演技しなかった。ただ踊った。


前世の十年間が作った恐怖を越えて、この場所の中心に立った。裏方ではない自分として。


胸元の白い野花が、燭台の灯りを受けてわずかに揺れていた。


舞踏会は続いていた。三曲目、四曲目と進み、広間の空気は華やかさを増していく。エステラは公爵家の席から広間を見ていた。


隣にヴィクトールがいた。父は何も言わなかった。だがその沈黙は、娘の選択を認めた沈黙だった。


レオンハルトは王族の席に戻っていた。距離がある。だがその距離は、もう冷却期間の距離ではなかった。


一曲を踊った。それだけのことだった。


それだけのことが、二人の関係を全貴族の前で形にした。


舞踏会が終わりに近づいた頃、レオンハルトが王族の席を立ち、エステラの席の近くを通りかかった。すれ違いざまに、声を落とした。


「一つ、伝えていないことがある」


エステラの足が止まりかけた。


「明日——庭園で」


それだけ言って、レオンハルトは通り過ぎた。


エステラは席に戻り、広間の燭台の灯りを見つめた。


伝えていないこと。


あの庭園で——「嘘はつきたくない」と言い合った場所で。


何を。


答えは分からなかった。だが、怖くはなかった。


胸元の白い花に触れた。


嘘のない一曲を踊った夜の、その先に何があるのか。


明日、この花がある、あの場所で聞く。

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