第8話「花の名前」
「お嬢様。カッセル侯爵家の動きについて、新しい話がございます」
侍女の声は慎重だった。舞踏会の数日前。ヴィクトール公爵の手配で主要貴族家への挨拶回りを終えたエステラのもとに、社交の場からの情報が届いた。
公爵家の政治力と、これまでの事件を通じて積み上げた実績。それらが評価され、上位貴族からの祝意表明の見込みが立ちつつあった。ブレンナー侯爵夫人は非公式ながら好意的な態度を示し、伯爵家の数家も公爵家との関係強化に前向きだった。
社交的な地盤は、父の力で整いつつある。
だが——。
「カッセル侯爵家が、新しい噂を流し始めたそうです」
侍女が声を落とした。
「『第二王子殿下との婚約は公爵家の政略であり、令嬢自身の意志ではないのでは』と」
エステラの手が、膝の上で止まった。
公爵家の政略。令嬢自身の意志ではない。
カッセル侯爵の最後の手だった。王太子変更論は国王の明言で前提が崩壊した。「元婚約者が弟に乗り換えた」という噂は、冷却期間の正式な終了と上位貴族からの好意的な反応で力を失いつつあった。
だから手を変えた。
エステラの意志を疑う噂。「公爵家が政治的な計算で娘を第二王子に嫁がせようとしている。令嬢自身はそれに従っているだけだ」。
的確な攻撃だった。
あの茶会でエステラが見せた曖昧さ。侯爵夫人の問いに対して「冷却期間の後に正式な手続きを経て」と答えた、あの歯切れの悪さ。それをカッセル侯爵は見抜いていた。公爵令嬢が自分の言葉で明確に意志を表明していない。だから「令嬢自身の意志ではない」という物語が成立する。
エステラの中で、記憶が重なった。
あの日。断罪の日。庭園でアルヴィンがエステラを糾弾した日。あの時もエステラの意志は無視された。他者が勝手にエステラの立場を決め、エステラの言い分は消えた。
同じだった。
今度もまた、他者がエステラの意志を勝手に測ろうとしている。「この婚約は公爵家の政略だ」と。エステラ自身の意志など、最初から存在しないかのように。
怒りが来た。
泣きたいのではなかった。演技をしたいのでもなかった。ただ、怒りが来た。
わたくしの意志を、他人が勝手に測るな。
あの庭園に立った時と同じ怒りだった。嘘泣きを武器にすると決めた日の、あの怒り。だが今回は泣くことではなく、言葉で返す。
宰相グラーフの執務室。
エステラは二度目の面会を求めた。前回は宰相の側からの非公式な呼び出しだった。今回はエステラの側からの面会申請。公爵令嬢が宰相に面会を求めることは、身分上可能な行為だった。
執務室は前回と変わらなかった。書架。重厚な机。薄暗い室内。宰相グラーフが机の向こうに座り、エステラを見た。
前回と同じ抑制的な目。だがその目の奥に、わずかな関心があった。二度目の面会を公爵令嬢の側から求めてきた。その事実を、宰相は量っている。
「閣下。お時間を頂戴いたしまして、ありがとうございます」
エステラは深く一礼し、椅子に腰を下ろした。
「お伝えしたいことがございます」
宰相は無言で先を促した。
「レオンハルト殿下との関係について、宮廷内で様々な解釈が流れていることは承知しております。中には、この婚約がわたくし自身の意志ではなく、公爵家の政略であるという噂もあるそうですわ」
宰相の表情は動かなかった。だがエステラの言葉を正確に聞いていることは、視線の固定具合から分かった。
「閣下。この婚約は、わたくし自身の意志でございます」
声は静かだったが、明確だった。震えも、曖昧さもなかった。
「公爵家の政略ではございません。お父様の判断でもございません。わたくし自身が、わたくし自身の感情と判断に基づいて、レオンハルト殿下との関係を望んでおります」
宰相は数拍の間、黙っていた。
「グランツハイム嬢。前回お会いした時、私は冷却期間中の接触に慎重を期すよう申し上げた」
「はい。そのご忠告は遵守いたしました」
「承知している。冷却期間は国王陛下の宣言により正式に終了した。制度上の障害はない」
宰相は机の上で両手を組んだ。
「令嬢自身の意志であるという言葉、確かに承った」
反対はしなかった。
賛成もしなかった。だが、反対しなかった。
宰相は制度の番人だった。制度に反することには反対するが、制度に沿うことには異を唱えない。冷却期間は正式に終了し、公爵令嬢が自身の意志を明言した。手続き上の問題はない。
ならば、宰相が異を唱える理由はなかった。
「閣下がわたくしの意志を確認されたという事実は、宮廷にとって一つの基準になるかと存じます」
エステラは静かに言った。
宰相がエステラの意志を直接確認した。その事実が宮廷に伝われば——宰相の口から伝わらなくとも、面会の事実自体が伝われば——「公爵家の政略であり令嬢の意志ではない」という噂は成立しなくなる。
宰相の無表情の奥に、何かが動いた気配があった。理解。この公爵令嬢が何を計算してここに来たかを、制度の人間は制度の論理で理解した。
「他にご用件は」
「ございません。お時間をいただき、ありがとうございました」
エステラは深く一礼し、執務室を出た。
廊下を歩きながら、呼吸を整えた。
怒りは消えていなかった。だが怒りを泣くことに変える必要はなかった。演技に変える必要もなかった。怒りを、言葉に変えた。自分の意志を、自分の声で、宰相に伝えた。
カッセル侯爵の噂工作は、エステラが宰相の前で意志を明言したことで無効化される。宰相がエステラの意志を確認した事実が宮廷に伝われば、「公爵家の政略」論は土台を失う。
侯爵の工作が、エステラの毅然とした態度で崩された。
その結果として、カッセル侯爵の社交的信用にも傷がつき始めるだろう。根拠の薄い噂を流していた人物として。
だがエステラの胸に残ったのは、侯爵への報復の感覚ではなかった。
あの断罪の日と同じ怒りだった。他者に意志を奪われることへの怒り。だが今回は、泣くことでも演技でもなく、自分の言葉で返した。嘘のない言葉で。
前世では窓口の制服を着た自分が鏡に映っていた。今、鏡に映っているのは公爵令嬢。でも中身は同じ人間。十年間の窓口と十七年間の公爵令嬢。両方が自分だった。
自室に戻ると、侍女がもう一つの報告を持っていた。
「お嬢様。ミルフィーユ様の近況について、男爵家の使用人から話が入りました」
エステラは椅子に腰を下ろした。
「ミルフィーユ様は、王都から離れた町の仕立て屋で、針子のお仕事を始められたそうです」
エステラの手が、膝の上でわずかに動いた。
ミルフィ。
あの対面で「何が本当の気持ちか分からなくなった」と泣いた少女。父の指示を拒み、「書けません」と言った少女。養子縁組を取消され、平民に戻り、父の商会からも離れた少女。
針子。
道具ではない自分として、新しい場所で、新しい仕事を始めている。
エステラの胸の中で、ミルフィの姿が静かに重なった。
あの対面でエステラは泣いた。本物の涙を。ミルフィの「自分の涙が本物かどうか分からない」という言葉に、前世の自分が重なって。
ミルフィが針子として生きている。道具ではない自分の輪郭を、一針ずつ縫い取るように。
エステラもまた、道具ではない自分として明日に臨む。
舞踏会の前日。宰相の前で意志を明言した日。カッセル侯爵の最後の工作を崩した日。
その日の夕刻。侍女が控えめに声をかけた。
「お嬢様。レオンハルト殿下の侍従から、お届け物でございます」
小さな箱だった。
開けると、中に白い野花が一輪。庭園の片隅に咲くような、素朴な花だった。宮廷で好まれる豪華な花ではない。
箱の底に、短い紙片が添えられていた。
「嫌でなければ胸元につけてくれ」
レオンハルトの筆跡だった。飾りのない、簡潔な文字。
エステラは白い花を手に取った。
小さな花だった。華やかではない。だが、この花を選んだのはレオンハルトだった。宮廷の慣習に合わせた豪華な花ではなく、庭園の片隅に咲く素朴な一輪を選んだ。
嘘のない花だった。
エステラは花を胸元に当ててみた。明日の衣装はまだ決めていない。だがこの花は、どんな衣装にもつけると決めた。
窓の外で、夕暮れの光が最後の色を空に残していた。
明日。
全貴族の前に立つ。視線を浴びる。中心に立つ。
怖い。
怖いけれど、胸元にこの花がある。
それだけで、足は動く。




