第5話「兄の手」
レオンハルトが動いたのは、エステラの知らないところだった。
それを知ったのは事後だった。回廊の窓際、いつもの時間、いつもの政務書類の受け渡し。だがその日のレオンハルトの声には、いつもと違う質感があった。報告の声だった。
「カッセル侯爵が俺に接触してきた」
エステラの指が書類の上で止まった。
「宮廷の公式行事の場でだ。『殿下のお力を高く評価しております。王国のためにも、より相応しい地位をお考えになるべきでは』と。露骨だった」
レオンハルトの声は平坦だったが、その平坦さの下にかすかな苛立ちが滲んでいた。
「断った。だが侯爵は引かなかった。丁寧に、しかし退かない。あの手の人間は拒否を受けても諦めない。『まだ考えが固まっていないのだろう』と解釈する」
「殿下が断ったことは、宮廷内にどう伝わりますの」
「伝わらない。公式行事の場での短いやり取りだ。俺が断った事実は俺と侯爵しか知らない。侯爵が外に流すのは『殿下と有意義なお話をした』という体裁だけだ」
カッセル侯爵の手法。接触の事実だけを見せ、内容は自分に都合のいい形で解釈させる。レオンハルトが拒否したことは外に出ず、「第二王子が侯爵と話をしていた」という事実だけが残る。「レオンハルトが王太子の地位に関心を持っている」という誤解を、接触の事実で裏打ちする。
噂と同じ構造だった。事実の断片を切り取り、都合のよい物語に仕立てる。
「それと——もう一つ、報告がある」
レオンハルトの声が変わった。政務報告の声から、別の何かに。
「兄上が俺を呼び出した」
エステラは息を止めた。
アルヴィン。王太子。再教育を開始してから三ヶ月弱。あの兄弟の間には、深い溝があった。アルヴィンがレオンハルトに「エステラに肩入れするな」と命じた日。政務が移管された日。商会の工作の全容を伝えた日。
その溝が、わずかに緩んだのは、商会の件でレオンハルトがアルヴィンに事実を伝えた時だった。だが緩んだだけで、修復されたわけではなかった。
「兄上が何と」
「『王太子変更論について、私の考えを聞いてくれ』と」
エステラは瞬きを一つした。
アルヴィンが。自分から。弟に。
「兄上はこう言った。『私は王太子を降りるつもりはない。降りないことと、お前の邪魔をすることは別だ』と」
レオンハルトの声は平坦を保とうとしていた。だが、兄について語る時のあの冷えた距離感が、今日はいつもより薄かった。冷えた距離感の代わりに、まだ名前のつかない何かが滲んでいた。
「再教育で自分の過ちに向き合った結果、王太子としてやり直す意志を固めた、と。その上で——」
レオンハルトが一拍の間を置いた。
「『お前が王位を望んでいないことは分かっている。だがそれをお前だけが言っても信じてもらえない。私が言う必要がある』と。俺と兄上が揃って国王陛下の前で意見を述べることを、兄上が提案した」
エステラの胸の中で、複数の感情が同時に動いた。
アルヴィンが変わろうとしている。あの庭園でエステラを断罪しようとした王太子が、あの審議の間で自尊心に負けそうになりながら同意した王太子が、自分から弟に手を差し伸べた。
そしてレオンハルトは、その提案を受け入れた。
「殿下は、兄上の提案をお受けになったのですね」
「ああ」
短い一言だった。
だがその一言の重さを、エステラは感じ取っていた。
レオンハルトにとって、兄に助けを借りることは容易なことではなかった。「守られたことがない」と言ったこの人が、兄の申し出を受け入れた。信頼が回復していない相手からの提案を、信頼の先払いとして受け取った。
「国王陛下への私的な謁見を、兄上と共同で申し入れた。日程は——舞踏会の二週間前になる見込みだ」
エステラは頷いた。
そして、ここまでの報告の全体が見えた。
カッセル侯爵の接触。アルヴィンの提案。国王への共同謁見。
全て、エステラの知らないところで動いていた。
「殿下」
エステラは声を落とした。
「殿下がアルヴィン殿下を信じたのですね」
レオンハルトは答えなかった。沈黙が数拍続いた。
「信じた、というのが正しいか分からない。だが、兄上の言葉を聞いて——あの人が嘘を言っていないことは分かった」
嘘を言っていない。
それはレオンハルトの中で、信頼の最小単位だった。嘘でないことが確認できれば、その先に進む意味がある。あの庭園で、エステラとの間でも同じことが起きた。嘘をつかないという確認が、全ての始まりだった。
エステラは一つ呼吸を整えた。
「それと——わたくしに相談なく動かれたのですわね」
声は穏やかだった。責めてはいなかった。だがその一言を、意図して口にした。
レオンハルトの動きがわずかに止まった。
エステラの脳裏に、あの日の回廊が蘇っていた。商会の噂がレオンハルトの信用を削ろうとした時。エステラは父を通じて公爵家として王家に報告書を提出した。レオンハルトに事前相談せずに。
あの時、レオンハルトは言った。「事前に俺に相談しないのか」と。
今は逆だった。レオンハルトが、エステラに相談なく、兄と動いた。
その対称性を、エステラ自身が自覚していた。
「あの時のわたくしと、同じですわね」
レオンハルトの目がわずかに見開かれた。
「殿下を守るために、事前にご相談せずに動いた時のわたくしと。今度は殿下が、わたくしに相談なく動かれた」
沈黙が落ちた。回廊を行き交う生徒たちの足音が、遠い場所の出来事のように聞こえた。
「今のわたくしには、殿下の気持ちが少し分かりますわ。あの時の殿下の」
声は穏やかだった。怒りはなかった。寂しさも——少しはあった。だがそれ以上に、理解があった。
あの時、レオンハルトは何も返さなかった。「分かった」と短く言っただけだった。同意でも感謝でもない、ただ事実を受け止めた声だった。
今、エステラは同じ場所に立っていた。相談されなかった側。守られた側。
守られる側の心情を、初めて理解した。
相手が自分のために動いてくれたことへの感謝。相談されなかったことへのかすかな寂しさ。そして、「自分を信じてくれた」のか「自分には任せられないと判断した」のか分からない、その曖昧さ。
あの時のレオンハルトも、同じことを感じていたのだろうか。
「すまない」
レオンハルトが言った。短く。
「兄上の提案は急だった。判断する時間が限られていた。だが——」
「謝らないでくださいませ」
エステラは微笑んだ。公爵令嬢の完璧な微笑みではなかった。もう少し柔らかい、不完全な笑みだった。
「殿下が兄上を信じて動いたことを、わたくしは信じますわ」
レオンハルトは数拍の間、何も言わなかった。
「——ああ」
それだけだった。だがその短い応答の中に、複数の感情が折り畳まれていることを、エステラは感じ取っていた。
自室に戻り、椅子に腰を下ろした。
兄弟の溝に、最初の橋が架かった。
レオンハルトにとって「兄に助けを借りる」ことは新しい経験だった。控えの駒として扱われてきた人間が、兄からの協力を受け入れた。
エステラにとって「相談されなかった」ことを受け止めることは、あの日の裏返しだった。
守る側と守られる側は、どちらも少し痛い。
エステラは窓の外を見た。
国王への謁見は舞踏会の二週間前。
兄弟が揃って父王の前に立つ。そこで何が起きるかは、エステラには分からない。
だが、兄弟にしか動かせない問題が、兄弟の手で動き始めたことだけは、確かだった。




