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被害者面だけはお上手ですこと。では、わたくしも同じ手を使わせていただきますわ  作者: 月雅
第3章

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第4話「踊れない足」

この人は、言わないことで守ろうとしている。


エステラがそう気づいたのは、回廊の窓際で書類を受け取った時だった。


婚約解消から二ヶ月半が経っていた。国王はまだ冷却期間の終了を宣言していない。茶会や園遊会を通じた社交は続いていたが、主要貴族家との関係構築は道半ばだった。カッセル侯爵家の噂工作も止まっていない。


そんな中、国王から舞踏会の日程が発表された。約一ヶ月後。


年に一度の大舞踏会。王家主催。全貴族参加。社交シーズンの頂点。


その知らせが宮廷に届いた翌日の、政務書類の受け渡しだった。


レオンハルトが書類を手渡しながら、声を落とした。


「舞踏会の話は聞いたか」


「ええ」


エステラは頷いた。侍女から、既に詳細を聞いていた。


レオンハルトは書類を整える動作をしながら、窓の外に一瞬だけ視線を向けた。


「そうか」


それだけだった。


踊りたい、とは言わなかった。


エステラはその沈黙の中身を読み取っていた。


舞踏会で王族が特定の令嬢と踊ることは、婚姻の意図を公に示す最も格式高い慣習的表明だった。冷却期間中にそれを口にすることは、宰相の忠告に反する。カッセル侯爵に利用される材料になる。


だからレオンハルトは言わない。


合理的な判断だった。正しい判断だった。この人は事実と論理に基づいて行動する。感情を排した政務の声で「話は聞いたか」と確認し、それ以上は踏み込まない。


正しい。


正しいのに、胸の奥がわずかに軋んだ。


エステラは書類を受け取り、一礼してその場を離れた。


自室の窓辺。刺繍枠を膝に置いたが、針は動かなかった。


レオンハルトが「踊りたい」と言わない理由は分かっている。冷却期間中だから。宰相の忠告があるから。カッセル侯爵に利用されるから。全て合理的な理由だった。


だがその合理性の奥に、もう一つの理由があることも、エステラには見えていた。


感情で動くことへの恐怖。


あの庭園で、レオンハルトは言った。「感情で動く人間は兄上のようになる」と。感情で判断を歪め、涙を信じ、事実を見失う。そうはなりたくないと。


「踊りたい」と言うことは、感情を表に出すことだった。政治的なリスクの計算だけでなく、感情を認めることへの恐怖が、レオンハルトの口を閉じさせている。


合理的な理由と、感情的な恐怖が重なっている。どちらが本当の理由かは、おそらくレオンハルト自身にも分離できていない。


エステラは刺繍枠を膝の上で傾けた。


あの人が抑制している。わたくしのために。政治のために。あるいはその両方のために。


それを見て、エステラの中で別の衝動が動き始めていた。


冷却期間の終了を待たずに、自分の側から国王に申し出てはどうか。公爵家から王家への非公式な打診として、冷却期間の短縮を願い出る。父を通じてなら、手続き上は不可能ではない。


口を出したい。


その衝動が、胸の内側で形を取ろうとしていた。


だが、その衝動を自覚した瞬間、別の記憶が重なった。


商会の噂がレオンハルトの信用を削ろうとした時。エステラは父を通じて公爵家として王家に報告書を提出し、問題の焦点を移した。レオンハルトに事前相談せずに。


あの時、レオンハルトは言った。「事前に俺に相談しないのか」と。そしてエステラは「ご相談すれば殿下は止めるでしょう」と答えた。


あの行動は、結果として正しかった。レオンハルトを守った。だが——あの時のわたくしは、殿下の意志を尊重していなかった。


今、レオンハルトは自分の判断で口を閉じている。感情を抑え、合理性を優先し、カッセル侯爵に付け入る隙を与えないために。それはレオンハルト自身の選択だった。


その選択に、エステラが割って入ることは——あの時と同じことだった。


守ることと、信じて任せることは、違う。


エステラは刺繍の針を握り直した。


口を出したい。冷却期間の終了を早めたい。この人が抑制しなくて済むように、自分が動きたい。


だが、それは本当にレオンハルトのためなのか。


それとも——。


自分が怖いから、ではないのか。


舞踏会で踊ること。全貴族の前に立つこと。あの茶会で感じた、中心にいることへの無意識の躊躇。裏方の自分が表舞台に立つことへの拒絶反応。


冷却期間が終わらなければ、踊る必要はない。レオンハルトが口にしなければ、自分も答えなくて済む。


動かないことを「信じて任せる」と呼んでいるのか。それとも「怖いから動けない」を体のいい言葉で覆っているだけなのか。


どちらが本当の理由か、エステラ自身にも整理できなかった。


二つの動機が重なっている。「信じて任せる」と「自分が怖いから動けない」。その境界が、自分の中で曖昧だった。


レオンハルトの沈黙の中身を読み取れるのに、自分の沈黙の中身は読めない。


エステラは針を止め、窓の外を見た。


午後の光が傾き始めている。舞踏会まで約一ヶ月。冷却期間は続いている。


翌日。回廊の窓際。


政務書類の受け渡し。いつもの場所、いつもの時間。


レオンハルトが書類を手渡した。エステラが受け取った。指先が書類に触れる、その一瞬の距離。


エステラは何も言わなかった。


舞踏会のことも。冷却期間のことも。口を出したいという衝動のことも。


何も。


レオンハルトの表情は読めなかった。いつもの平静。だがその平静の下に何があるのか——エステラが何も言わないことを「察してくれた」と感じているのか、それとも別の何かを読み取っているのか——は、確認できなかった。


エステラが察したのか。踏み出せなかったのか。


互いに確認できないまま、書類の受け渡しが終わった。


レオンハルトが踵を返した。


その背中を見送りながら、エステラの胸に残ったのは、「待つ」という行為の重さだった。


あの回廊で「俺も同じだ」と言われた日。あの言葉を待ってくれていたことが嬉しかった。急かさず、答えを求めず、不完全なままの感情を受け止めてくれた。「それで十分だ」と。


待ってくれることが嬉しかった。


だが今は——待つことしかできない自分がいた。冷却期間が終わるのを待つ。国王の宣言を待つ。レオンハルトが口を開くのを待つ。


待たせていることへの申し訳なさと、待つことしかできない苛立ちが混在していた。


前世では、誰も待ってくれなかった。窓口に立つ自分の事情を、誰も待ちはしなかった。


だが待つ側の痛みも、前世では知らなかった。待つということは、相手の判断を信じるということだった。信じるということは、自分の不安を飲み込むということだった。


エステラは自室に戻り、椅子に腰を下ろした。


舞踏会まで約一ヶ月。冷却期間はまだ終わらない。


動けない。動かない。


その二つの間で、エステラの足は止まったままだった。


夕刻。公爵家から書簡が届いた。


ヴィクトールの手による短い文面だった。


「王太子変更論について、国王陛下がどうお考えか。それが明確にならない限り、舞踏会の意味が変わる。だがそれを動かせるのは殿下たちだ」


エステラは書簡を畳み、膝の上に置いた。


殿下たち。


父が指しているのは、レオンハルトとアルヴィンだった。


王太子変更論を沈静化させるには、レオンハルト自身が王位を望まないと公に示す必要がある。だがレオンハルト一人がそう言っても、カッセル侯爵は信じない。「政治家は全員権力を望む」という自己投影で、レオンハルトの言葉を退ける。


ならば——アルヴィンが。王太子自身が。


兄弟が共に動くこと。それが解決の鍵になる可能性を、父は示している。


だがそれは、エステラの手が届く場所ではなかった。


兄弟の問題は、兄弟にしか動かせない。


エステラは書簡を畳んだまま、窓の外を見た。


夕暮れの空が、淡い橙に染まっている。


待つことしかできない。


その重さが、舞踏会の足音とともに、少しずつ近づいていた。

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