第2話「先手の涙」
「エステラ。来てもらったのは他でもない」
アルヴィンの声が、薔薇の庭園に冷たく響いた。
午後の陽光が生垣の間から差し込み、白い石畳に淡い影を落としている。学園に隣接する庭園は、本来ならば穏やかな散策の場だった。手入れの行き届いた薔薇はまだ蕾の季節で、棘だけが陽に光っている。
アルヴィンは庭園の東屋に立っていた。王太子に相応しい端正な佇まい。だがその表情には、婚約者に向けるものとは思えない硬さがあった。
傍らにミルフィがいた。アルヴィンの半歩後ろに控え、両手を胸の前で組んでいる。俯き加減で、睫毛が微かに濡れていた。
東屋の周囲には、数名の貴族令嬢と護衛の騎士が居合わせている。偶然を装っているが、この時間にこの場所に人が集まること自体が不自然だった。目撃者を揃えている。エステラはそれを一瞬で読み取った。
「殿下。お呼び立てにあずかり光栄ですわ」
エステラは深く、しかし優雅に礼をした。王太子への最上級の礼。公爵令嬢として一分の隙もない所作だった。
アルヴィンは礼を受けたが、着席を促さなかった。立ったまま見下ろす形になる。
「単刀直入に言う。ミルフィーユを虐めたそうだな」
声に怒気が滲んでいた。
エステラは表情を動かさなかった。内心では、前世のクレーム対応窓口の記憶が瞬時に立ち上がっていた。
——来た。冤罪。想定通り。
「虐めた、とは。具体的にどのようなことでしょうか、殿下」
穏やかに問い返す。声の温度を一定に保つ。ここで感情を見せれば相手の土俵に乗ることになる。まずは相手に語らせる。
アルヴィンが一歩前に出た。
「ミルフィーユから聞いた。エステラ、君が彼女に冷たい言葉を浴びせ、侍女を使って嫌がらせを続けていたと。彼女は怯えている。見れば分かるだろう」
ミルフィが小さく身じろぎした。アルヴィンの言葉に反応するように、肩が震える。目の縁に涙が溜まり、今にも零れそうになりながら、必死に堪えている。
健気泣き。
エステラは昨夜分析したパターンを、目の前で確認していた。声を上げない。涙を溢れさせず、縁に溜める。唇を小さく震わせる。「泣きたいけれど、泣くまいとしている」演出。周囲の庇護欲を最大限に引き出す型。
居合わせた令嬢たちの表情が動くのが分かった。ミルフィへの同情。そしてエステラへの、冷ややかな視線。
反論すれば「冷酷な悪役令嬢」の構図に嵌まる。
証拠を求めれば「被害者を追い詰める加害者」になる。
冷静に対処すれば「計算的で冷たい女」と見なされる。
この国の宮廷文化では、そうなる。
ならば。
エステラは一拍の間を置いた。
呼吸を整える。横隔膜の動きを意識する。前世で、どうしても涙が必要だった日に使った技術。悲しい記憶を引き出すのではない。目を開いたまま呼吸のリズムを変え、涙腺を刺激する。身体的な反応を先に作り、感情の表情を後から載せる。
アルヴィンの言葉を受けた瞬間——という体で。
エステラの瞳から、一筋の涙が頬を伝った。
「殿下が——」
声が震えた。完璧に制御された震え。大きすぎず、小さすぎず。周囲の全員に聞こえる程度の、途切れがちな声。
「殿下が、わたくしを、そのように——」
片手が胸に添えられた。もう片方の手が、零れた涙を拭おうとして、しかし間に合わない。二筋目の涙が反対の頬を流れ落ちる。
エステラは一歩後ずさった。衝撃を受けた人間が無意識に距離を取る動き。計算し尽くされた一歩。
「身に覚えのないことで——お疑いを、受けるなど——」
嗚咽が混じる。しかし声を上げて泣くことはしない。公爵令嬢としての矜持が、泣き崩れることを許さない——そういう絵を描いた。
庭園の空気が変わった。
エステラの涙に、居合わせた令嬢たちの表情が揺れたのが分かった。ミルフィへの同情が、そのまま消えたわけではない。だが新しい要素が加わった。
公爵令嬢が、王太子の前で泣いている。
この国の宮廷において、それが意味するものは重い。王太子が公爵令嬢を泣かせた。公爵家に対する侮辱と受け取られかねない光景が、複数の目撃者の前で展開されている。
アルヴィンの表情に、初めて動揺が走った。
断罪の場を設えたはずだった。罪人に罪を突きつけ、婚約者としての不適格を宣告する——そういう筋書きだったのだろう。だが目の前の婚約者は罪人の顔をしていなかった。冤罪に涙する被害者の顔をしていた。
「——エステラ」
アルヴィンの語気が、わずかに鈍った。
ミルフィが隣で気配を強めた。涙を溜めた目でアルヴィンを見上げ、その袖に触れようとする。
だが、遅い。
エステラの涙が先に場を支配していた。
周囲の目が語っている。「どちらの涙が本物か」という問いが、この場にいる全員の中に生まれてしまった。断罪の場は「どちらが被害者か分からない」場に変質していた。
アルヴィンは口を開きかけ、閉じた。もう一度開き、しかし言葉が出ない。
王太子としての威厳で押し切るには、エステラの涙が重すぎた。公爵令嬢の涙は、男爵家養女の涙とは政治的な重みが違う。それを無視して断罪を続ければ、「王太子が公爵家を一方的に侮辱した」という事実が目撃者を通じて宮廷中に広まる。
「——今日のところは、改めて話をする」
アルヴィンはそう言って、視線を逸らした。断罪の宣言は行われなかった。ミルフィの肩にそっと手を置き、東屋を離れていく。ミルフィは一度だけ振り返り、涙で濡れた目でエステラを見た。
その目には、涙の奥に、冷たい光があった。
エステラはそれを見逃さなかった。
だが表情は崩さない。涙の跡が残る頬のまま、去っていく二人の背を見送る。周囲の令嬢たちも、気まずそうに散っていく。
庭園に静けさが戻った。
エステラは侍女だけを傍に残し、東屋の柱にそっと手をついた。涙はもう止まっている。止めたのではない。必要がなくなったから、身体が自然に切り替わった。
これが始まりに過ぎないことは分かっている。
今日のところは「断罪を不成立にした」だけだ。アルヴィンは引き下がったが、諦めてはいない。ミルフィも、次の手を考えるだろう。
だが、一つだけ確定したことがある。
泣くことは、この戦場で武器になる。
そして——わたくしの武器は、あの子と同じ種類のものだ。
同じ土俵に立った。
エステラは目元を指先で軽く押さえ、呼吸を整えた。侍女が心配そうに近づこうとするのを、微笑みで制する。
「大丈夫ですわ。少し、驚いただけですから」
その言葉は侍女に向けたものだった。同時に、この場を離れてから侍女が語るであろう証言のためでもあった。「お嬢様は驚いて泣いていらした。断じて演技ではなかった」と。
証言主義の宮廷では、侍女の言葉もまた、力を持つ。
エステラが庭園を離れようと歩き出した時。
視界の端に、人影が映った。
庭園の東側、回廊に繋がる柱の陰。そこに誰かが立っていた。騎士ではない。令嬢でもない。学園の制服に似た、しかしわずかに仕立ての良い上着を纏った青年。
こちらを見ていた。
腕を組み、柱に背を預けて。一部始終を見ていたのだと、その佇まいが語っていた。
冷めた目だった。涙に動かされた者の目ではなかった。
エステラの涙にも、ミルフィの涙にも、等しく距離を置いた——観察者の目。
その人影が誰であるか、エステラにはすぐに分かった。
王太子アルヴィンの異母弟。第二王子、レオンハルト・フォン・レグニツァ。
公式行事で何度か挨拶を交わしたことがある程度の、形式的な面識しかない相手。政務補佐を務めていると聞いたことがあるが、それ以上の情報は持っていなかった。
レオンハルトは何も言わなかった。
ただ、エステラと目が合った瞬間、かすかに——本当にかすかに——口の端を上げた。
それが何を意味するのか、エステラには分からなかった。
分からないまま、エステラは視線を外し、侍女とともに庭園を後にした。
背中に、観察者の視線が残っている気がした。




