第2話「商人の手」
「殿下。御用商人の申請記録について、確認したいことがございます」
レオンハルトの声が、政務室の扉越しに聞こえた。相手は商務官付きの書記官だった。エステラがそれを知ったのは、政務書類の受け渡しの際にレオンハルト自身が伝えたからだった。
回廊の窓際。いつもの場所、いつもの時間。
「商務官の記録を照会した。エールバッハ商会の御用商人認定申請は、正式に受理されている」
レオンハルトは書類を手渡しながら、声を落とした。侍女が数歩離れた位置に控えている。回廊には他の生徒が疎らに行き交っていた。
「それと、商会が資金を貸し付けている貴族家のリストが出てきた」
書類の間に、薄い紙片が一枚挟まれていた。エステラはそれを受け取りながら、ちらりと目を走らせた。
男爵家が三。子爵家が二。いずれもエステラが名前を知っている下級貴族家だった。
「借財関係を通じた影響力か」
レオンハルトが呟くように言った。独り言のような声量だったが、エステラに聞かせるための距離だった。
「一つの商家が、これだけの貴族家に貸付を行っている。各家は借財の返済条件を通じて、商会の意向を無視できない立場にある。直接的な政治権限はない。だが、間接的な影響力としては十分だ」
エステラは紙片を書類の間に戻し、胸に抱えた。
構造が見えてきた。
ミルフィを男爵家に養子に入れ、学園に通わせ、王太子の傍に立たせた。それは商会の計画の第一段階に過ぎなかった。ミルフィが王太子の寵愛を得ることで、商家として宮廷への足がかりを作る。同時に、複数の貴族家への貸付で間接的な影響力を構築する。そして御用商人の認定を得ることで、宮廷への合法的なアクセスを確立する。
三段階。
ミルフィの退去で第一段階は崩壊した。だが第二段階の貸付関係はそのまま残っており、第三段階の御用商人申請は独立して進行している。
「計画的ですわね」
エステラは声を抑えたまま呟いた。
前世の記憶が、鮮明な映像を送り込んでくる。百貨店時代、クレームの裏に別の人間がいることがあった。表に出てくるのは感情的な客だが、その背後に入れ知恵をしている人物がいる。表の客に対応しても、裏の人間を押さえなければ同じことが繰り返される。
「クレーマーの背後にいる入れ知恵役。直接手を汚さず、駒を動かすタイプですわ」
「駒を動かす、か」
「ええ。ミルフィーユさんは駒でした。涙を武器にする少女を、宮廷に送り込むための。けれど駒を失っても、指し手はまだ盤の向こうにいる」
レオンハルトが腕を組んだ。政務書類の受け渡しとしては、既に不自然な長さになりつつあった。
「問題は——」
エステラは言葉を選んだ。
「この相手には、わたくしの得意な土俵では戦えませんわ」
レオンハルトが視線を上げた。
「わたくしが読めるのは感情です。泣き方の種類、声の震え、視線の動き。人の感情を読んで、最適な対応を返す。それが前の——十年間で身につけた技術ですの。けれど、この商会の主は感情で動いていない。利権と投資と回収。わたくしの対人技術が通じる相手ではありませんわ」
自分の弱点を、声に出して認めた。
前世で十年間、あらゆるクレーマーに対処してきた。感情で動く人間には対応できる。だが、感情を排して利害だけで動く人間は、エステラの武器の射程外にいる。
レオンハルトは黙って聞いていた。表情は変わらない。だが、エステラの言葉を軽く扱っている気配はなかった。
「弱点を自分で言える人間は少ない」
「褒められておりますの?」
「事実を述べている」
素っ気ない返し。だが、その素っ気なさの中に否定がないことを、エステラは感じ取っていた。弱点を認めたことを、この人は弱さとは見ていない。
レオンハルトが書類を整え直した。受け渡しを終える動作。
「庭園での件だが、あれは——」
その言葉が出た瞬間、回廊の奥から足音が近づいた。政務室付きの文官が、書類の束を抱えて早足で歩いてくる。
「殿下、王家会議の書記官より至急の回送書類です」
レオンハルトの口が閉じた。
「分かった」
文官に向き直り、書類を受け取る。その動作は自然だった。何事もなかったかのように、政務補佐の顔に切り替わった。
エステラは一礼して、その場を離れた。
自室に戻り、書類の間に挟まれていた紙片を広げた。
貸付先のリストを、もう一度確認する。男爵家三、子爵家二。それぞれの領地と家名を頭に入れる。
構造は分かった。対処の方針も、おぼろげに見えている。商会の宮廷進出を阻止するなら、御用商人の申請を止めることが最も効果的だ。だが申請自体は合法であり、レオンハルトの政務補佐としての権限で「止める」ことはできない。
エステラの武器——涙、演技、感情の読み——は通じない。
レオンハルトの武器——情報収集、記録照会、論理的分析——は有効だが、それだけでは足りない。
ならば、足りない部分を補うのは誰か。
エステラは紙片を畳み、書類の奥に収めた。
答えは既に分かっていた。だが、それを口にするのは今ではない。
窓の外に目をやった。午後の光が傾き始めている。
レオンハルトが「庭園での件」を切り出しかけた。あの言葉の続きが何だったのか、エステラには推測できた。だが推測は推測でしかない。
文官の来訪で中断された。
それを「仕方ない」と思う自分がいた。同時に、中断されたことへの小さな失望がある自分にも気づいていた。
あの人は感情より事実を優先する。それがレオンハルトの行動原理だった。庭園での言葉を持ち出しかけて、文官が来た瞬間に引いた。感情の話よりも、目の前の職務を選んだ。
それはレオンハルトらしい判断だった。
らしい判断だと分かっている。分かっていて、それでも、飲み込まれた言葉の先が気になる自分がいる。
エステラは刺繍枠を手に取った。
今はまだ、この感情に名前をつけなくていい。
やるべきことがある。商会の工作は三段階だった。第一段階は崩壊した。第二段階と第三段階はまだ生きている。そして自分の武器は、この相手には通じない。
通じないなら、通じる人を頼ればいい。
前世では、助けを求めるのが苦手だった。窓口に立つのは一人。理不尽なクレームに一人で対処し、一人で飲み込み、一人で翌日また笑顔を作った。
でも今は違う。
レオンハルトがいる。父がいる。一人で全てを抱える必要はない。
その認識が、前世にはなかった種類の感情を連れてくる。安心、というにはまだ早い。けれど、一人ではないということの輪郭だけは、確かに掴めている。
刺繍の針を動かしながら、エステラは次の手を考えた。
商会の貸付先リスト。その中に、父の知人がいないか確認する必要がある。公爵家の周辺にまで商会の触手が伸びていないか。
紙片を広げ直し、もう一度名前を確認した。
三つ目の子爵家の名前に、目が止まった。
フォルスター子爵家。
父ヴィクトールが、以前書簡の中で触れたことのある名前だった。古くからの知人。領地経営に苦労している、と父が案じていた家。
商会の貸付先に、父の知人がいる。
エステラの指が、紙片の上で止まった。
触手は、既に公爵家の周辺にまで伸びていた。




